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『狂気の歴史』:近代は最悪

だいぶ間が空いてしまいました。

新学期なので、いろいろ準備が忙しく。

うちの学校は二年の後期からゼミが始まるので、

新しいゼミ生との初のゼミもあり。

多分

新しいゼミ生より

俺の方が緊張。

ゼミというのは雰囲気が大切ですからね。

俺は昨年からゼミを持ち始めたので、

まだ二期目なんです。

どういう風に雰囲気作りをしていけばよいのか。

これは緊張する。

あとそれだけじゃなくて、

一番大切なのは、

実際に何を勉強するかですね。

悩みました。

俺としては

ゼミでは最初に分厚い哲学書をしっかり読んで、

ゼミ生に自信をつけてもらいたいというのがあるのですが、

何をやればいいか。

昨年に引き続き

フーコーにしようと思ってはいたんですが、

どうするか。

昨年は半年で『監獄の誕生』を読みました。

で今年は、

『狂気の歴史』にしようとは思っていたんですが、

これでいいかどうか

すごく悩みました。

で、

結局それにしたんですけどね。

 

狂気の歴史―古典主義時代における/ミシェル・フーコー

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『狂気の歴史』

難しいですよね。

もちろん

『監獄の誕生』とどっちが難しいかというのは言いにくいのですけれど。

まぁいっか。

気合いで乗り切っていこう。

さて、

学部生の時に適当に読んだままだったこの著作。

読み直してみるといろいろなことを考えます。

いろいろ発見もありました。

同書の図式を乱暴に要約するとこんな風になりますね。

まず

狂気はいつの時代も精神病であったわけではない。

これが出発点。

中世からルネッサンスにかけては、

狂人は悪魔に取り憑かれた者。

それが、フーコーの言う古典主義時代

——一七世紀半ばぐらいから一八世紀末ぐらいでしょうか——

に入ると

そういう風にはみなされなくなる。

つまり、悪魔とかそういう観念はなくなって脱宗教化される。

でも、それでよかっためでたしということではもちろんなくて、

脱宗教化されると同時に

人間の世界から放逐されて、監禁されるようになる。

狂人は権利や財産を剥奪されるわけです。

フーコーはそのメルクマールとして、

1657年に起こった一般施療院の創設とそこへの大規模監禁という事件をあげます。

そして近代。

フーコーはこれまた一つのメルクマールとして

1794年に起こったビセートル収容施設での、

鎖に繫がれていた収容者の解放を挙げる。

そして

こんどは精神病理学が登場し、

狂人を、治療されるべき病に冒されたものとして扱うようになるわけです。

さて、

なんか近代の精神病理学の登場は

よかったよかった、狂人がきちんとまともに扱われるようになったんだ

という風にも解釈できそうですよね。

でも、

もちろんフーコーはそうは考えていない。

狂人を巡る排除の構造が

或る意味でここで完成した

と考える。

どういうことか?

ここからが

フーコーのこの本を単なる歴史書ではなくて哲学書たらしめている

その構想の壮大さに関わるところです。

フーコーによれば、

西洋文明を特徴付ける「理性」なるものは、

狂気を排除することによって自らのアイデンティティーを保ってきた

と言うわけです。

自分でないものを斥けることによって自分が自分になる。

理性は狂気から自分流の真理をもぎとってきたという言い方もしています。

これは決して普遍的な事態ではない。

たとえばフーコーは古代ギリシャのロゴスに言及します。

ロゴスには反対語がない(そうです、フーコーによれば)。

対し、

理性は己の反対物を排除することで無理矢理に自分自身であり続けようとしてきた。

ここで先ほどの精神病理学に戻りましょう。

中世・ルネッサンスでは狂気を悪魔呼ばわりすることで理性が理性であり続ける。

しかし、

当時は狂人にはふらふらしていることが許されていて、いわば彼らにも場所があったんですね。

ところが、

古典主義時代はそれすら許さなくなる。

狂人に場所など与えてたまるか

というわけで、

彼らを監禁。

そして近代。

近代はそうして監禁しておいた狂人たちを「解放」した上で、

「よしよし、お前たちを治療してやるよ」

という態度に出るわけです。

そして

精神病理学こそは、

狂気を排除することで成立してきた理性の権化に他ならない。

つまり、

それまで自分を保つために排除し、差別、監禁してきたものを

こんどは治療によって完全消滅させようとする。

理性は、

狂気に対し

排除を超えて

殲滅作戦に出るわけです。

その殲滅の対象によってこそ自分は自分であり続けられたというのに。

更にこの議論は大きな企てに結びつけられる。

フーコーは

「狂気の歴史」ではなく、

歴史そのものに言及します。

歴史そのものがこの理性によって描かれたものだとすれば、

歴史にとってそもそも狂気が必要であったことになる。

狂気というものの存在の必然性。

それは歴史の可能性と結びついているのだ!

La nécessité de la folie est liée à la possibilité de l'histoire.

(邦訳12ページ)

!!

かっこいいですね。

狂気の歴史に取り組むことは

歴史そのものの存在を問い直すことになると

そういうわけです。

フーコー風にちょっとかっこよく言うと

狂気の経験は歴史がもつ様々な境界線に位置している!

(因みに、この本はフーコーの最初の本ですので、若いからだろうけど、文章がカッコつけすぎ。もっとシンプルに書いて欲しかった。)

壮大。

でも、

まさしく歴史=理性が排除してきたものが、狂気の歴史の対象なんだから、

それを歴史として研究し、叙述するというのは無理なんじゃない?

とフーコーも自問する。

で、

なんかこれは折衷的な感じがしなくもないんですけど、

こんな風に言うわけです。

狂気のありのままの野生状態を復元することはできないのだから、狂気を捉えている歴史上の総体(観念、制度、法制度、処置、学問等々)の構造的研究を行おう。

(邦訳13ページ)

まぁ、

この辺については今後読み進めていくなかで考えていきたいと思います。

さて、

ここまで読んだだけですが、

いろいろ考えますね。

とりあえず

近代の位置づけが大変気になるのです。

こういう分け方だと、

中世・ルネッサンス期の狂人の扱いの方がよかったという気がしてきます。

彼らは悪魔が取り憑いたとか言われているけど、その反面、存在していることが許されたし、場所も与えられていた。

なのに、それ以後の歴史は彼らの場所を奪い取り、その存在そのものを許さなくなっていった。

近代は最悪…。

このあたりが非常に難しい。

フーコーを読んでいると

「近代は最悪」という気になる。

だから

「昔の方がよかった」

という感想がでてくる可能性も相当高い。

学部生のときに

60年安保世代の政治思想の先生が

「とにかく悪いのは近代。近代が何もかもダメにした」

ということを熱心に主張していたのを思い出します。

世代的にはフーコーと近いですよね。

あの時代には

近代を悪者扱いする雰囲気はすごくあったように思います。

陳腐な例になってしまいますけど、

ヒッピーとかもそうでしょう。

でも、

それこそヒッピーみたいに

昔の方がよかったってなってしまっていいのか。

近代は確かに悪いことをたくさんしているけれど、

それを批判した上で前に進まなきゃだめじゃないか。

フーコーもそう思っていたんじゃないかと思うんですけど、

フーコーを読んでいると、

なかなかそういう気にならないんですね。

みなさんどうですか?

ドゥルーズは『フーコー』の中で

フーコーがやっていたGIP(監獄情報グループ)と彼が書いた『監獄の誕生』は、

新左翼(gauchisme)に

実践においても理論においても新しい事柄を教えたのだ

というようなことを言っています。

そうかもしれないんですが、

なんか肯定的なものがないというか、

前は向いているんだけど批判しかしないというか、

そういう雰囲気を作ることに一役買ってしまった

という気がしなくもない。

フーコー (河出文庫)/ジル ドゥルーズ

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このあたりのことを読みながら考えていきたいと思います。

ところでドゥルーズは

『狂気の歴史』にほとんど言及しません。

なんでだろう。

なんか分かるような気もするけど。