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〈計画停電の時代〉を生きるための制度を創造すること

前回、

「計画停電の時代」 という記事を書いた。

その後もいろいろ考えるところがあったので、記したい。



この前の日曜日、2011年3月27日付け東京新聞朝刊に

「哲学者」内山節氏の「システム依存からの脱却」

というエッセイが載っていた(「時代を読む」の欄)。


内山氏によれば、

わたしたちは「さまざまなシステムに依存して暮らしている」。

ところがその「システム」は何らかの想定の範囲内で維持可能なように設計されている。

原子力発電もそのひとつで、「これ以上の地震は発生しないという想定にたってシステムは設計されていた」。

だがここ数年に世界で起こっていることは、

市場システムにせよ、

年金・社会保障システムにせよ、

そうした想定が人間の思い込みに過ぎなかったということである。



これが内山氏の議論の骨子である。

ここから彼は次のように結論する。


想定に基づいたシステムは、想定外の事態が起こると崩壊する。

「それに対して、支え合い結び合う人間たちの働きは、どんな事態でも力を発揮する。とすると未来の社会は、どんな方向に向かうべきなのか。それはシステムに依存しすぎた社会からの脱却であろう。私たちに求められているのは、人間の結び合いが基盤になるような社会の創造である」。



俺はこういう「システム」という語の使い方に大いに疑問を持った。

正直言って、いま、内山氏のように「システム」という語を悪役に仕立ててものを考えるひとはそんなにはいないとは思うが、

とはいえ、

「システム」はダメで、

「人間の結び合い」がいい

という考えはダメだし、

矛盾していると思う。


なぜかといって、

「人間の結び合い」もシステムだからだ。




こう言ってもいいだろう。

システムにはいくつか層があって、

インフラ(下位)のシステムによって

「人間の結び合い」が支えられ、

「人間の結び合い」自体が

一つの上位システムを構成する。




俺は「人間の結び合い」の重要性を否定したいのではなくて、

(というか、「人間の結び合い」が何より大切だと思っている)

「人間の結び合い」はいくつものシステム(インフラ)によって支えられた

一つのシステムなのだから、

システムをそれを対立させるような仕方は

結局

どこにも存在しない「人間の結び合い」を

ただひたすら妄想することに至ってしまうと思う。



そうじゃなくて、

新しい「人間の結び合い」のシステム、

それを支える新しいシステムが必要なんじゃないのか?



去年、

自治体政策研究会主催シンポジウム

「子どもと向き合う地域の可能性」

というのにパネリストととして呼んでもらった時に
(シンポの紹介はここ )


地域社会の研究をしている久田邦明先生のお話でおもしろいことがあった。


かつては子どもは地域で育てられていたとか

老人が尊敬されていたとか

そういうことを言うけど、

そうしたことは自然発生的に起こっていたのではない。

子どもが地域とつながるようなイベントや場、

老人がそれまでの知識を継承するための場、

そうしたものがきちんと確保されていたから

子どもは地域と繋がりをもち、

老人は「なんでも知っているなぁ」と尊敬されていたのだ、と。



俺は詳しくないのだが、

久田先生は

講、結、連

といった中間団体的なもの(?)

社会的包摂の基礎になる制度についても教えてくださいました。



たとえばじいさまの集まりがきちんと制度としてある。

その中で昔の話がたくさんなされて知識が蓄積・継承される。

そういう場ではじいさまたちは地域の人間のさんざん悪口を言う(笑)。

しかしそういう場の外では決して言わない。

そういう場があったそうです。


これはまさしくシステム(インフラ)であり、

そのシステムの上で

じいさまの人間関係というシステムが構築されているわけです。

そしてそれを含めた第三の、大システムとして

地域社会というシステムがあったわけです。


  (1)インフラとしてのシステム
  (2)人間関係のシステム
  (3)複数のシステムを内包した社会というシステム


こう考えると、

「システム」と「人間の結び合い」を対立させるというのは

少々お粗末ではないか。


(一応付け加えておくと、講とか結とか連とか、詳しくは知りませんが、当然、抑圧的な側面ももっていたはずです。だからこれらを復活させろなどと言うつもりは毛頭ないし、そんなのはイヤだ。そういった制度が人間関係を支えていた、制度なしでは人間関係はうまく構築できないという事実を踏まえた上で、いま、新しい制度をつくるということをぁ考えていかねばならないというのが俺の言いたいことです。)




俺はこのブログでは

去年何度か

制度の話をしました。

「エゴイズム、共感、制度」
「制度と本能」
「再び制度について——有用性、あとちょっと『カイジ』の話」



詳しくは上のエントリーを参照してください。

簡単に言うと、

制度という語はここでは法に対立して用いられています。


法が行動を禁止するもの、消極的なモーメントであるのに対し、

制度は行動のモデル、積極的なモーメントです。

社会は制度によって成り立っている。

伝統的な哲学では、いつも社会で一番最初にあるものとして

法を掲げますが、

そうではなくて最初に制度があって、その後で法が来るのではないか。

ドゥルーズ=ヒュームに依拠してそのような話をしました。



上で言ったシステムの話は

むしろ制度と言った方がいいかもしれません。

新しい制度をどうやって構築していくか。

それを考えるべきではないでしょうか。




ここで計画停電の話に戻ります。

前回書いた通り、

いま電力が不足しているため計画停電が実施されています。

俺は

これからの時代は

定期的に計画停電があるぐらいの気持ちでなければいけないと思っています。

原発まで作って電力を使いまくる時代は20世紀で終わり。

(たぶん、何百年か後、20世紀は大量消費大量生産によって地球を食い尽くした時代として回顧されることでしょう。経済のあり方にしても、20世紀の資本主義は特殊です。)



さて、

すると、

計画停電を踏まえた新しい行動のモデル

制度が必要です。


これをどうやって作っていくか。


そのことを考えている時に一つのことを思い出しました。


1970年代、

オイル・ショックがありました。

原油価格は

第一次オイル・ショックで

1バレル3ドルから12ドルへ、

第二次オイルショックで

40ドルまで上がっていきました。


ところが、

日本経済はそれを見事乗り越えました。

詳しくは水野=萱野対談本

こちらのp.217あたりを参照

 

超マクロ展望 世界経済の真実 (集英社新書)/水野 和夫

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日本の自動車産業は

オイル・ショックの危機を

省エネ技術の開発によって乗り越えたのだそうです。

小型車の開発などですね。

それに対して

アメリカの自動車産業はそうした技術開発ができず(というか、多分やる気がなかったのだろう)

どんどん衰退していきました。



オイル・ショックですら乗り越えた日本の技術=知は

まさにそれに匹敵する危機を迎えた今、

もう一度発揮されねばならないのではないでしょうか。


それは広い意味でのシステムや制度にも活用できるはずです。

もうこれは俺の信念でしかありませんが、

オイル・ショック以降のことを考えれば、

〈計画停電の時代〉にあった電力使用の技術についても、

日本の技術=知は絶対に何か作れるはず。

だって一度乗り越えているんだから。


システムから脱却することが必要なんじゃなくて、

新しい経済システム

新しい社会システム

が必要なんです。

強く思います。