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[卒業論文]ライプニッツと世界の再構築② 第一章

第一章 ライプニッツにおける個体

 

 ライプニッツは、個体の概念の次元にまで溯って、世界の再構築について思考する。ライプニッツにとって、個体の捉え方というのは極めて重要な問題であり、彼の提起した考え方の多くはそれと無関係ではあり得ない。我々はまず、ライプニッツが個体をどう考えたのかについて検討する。

 

個体と可能世界

 ライプニッツは可能世界という考え方を導入した。差し当たって定義しておくのなら、それは、この現実の世界とは異なる、あり得たであろう他の世界のことである。彼はこの可能世界論を必然的真理と偶然的真理との区別に基づいて展開している。この区別は、絶対的必然性と仮定的必然性(1)、思考の真理と事実の真理(2)などと言い換えられ、彼の著作の中に数多く散見される。その最も明確な定義の一つは、『モナドロジー』の中にある次のようなものだ。《真理にも二種類ある。思考の真理と事実の真理である。思考の真理は必然的でその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的でその反対も可能である》(3)。思考の真理すなわち必然的真理とは、その逆が矛盾を含むような真理、すなわちあらゆる可能世界において妥当するような真理である。ライプニッツはその例として、《論理学、数、幾何学の真理》(4)を挙げている(5)。他方、事実は偶然的な真理である。例えば、シーザーがルビコン河を渡ったというのは我々の知る事実である。しかし、シーザーがルビコン河を渡ったという事実の逆は、それ自体においては、矛盾を含まない。可能世界においては、シーザーはルビコン河を渡らなかったかもしれない。我々はシーザーがルビコン河を渡らなかったような可能世界を考え得る。よってシーザーがルビコン河を渡ったという事実は、偶然的真理である。このように可能世界論は、ライプニッツの偶然・必然の区別に由来する考え方である。

 なぜライプニッツは、このように奇妙な可能世界なる概念を提起したのか。実は、このことは、ライプニッツの実体の捉え方と密接な関係を持っている。

 ライプニッツにとって、実体とは単純実体すなわち個体である。彼はそれをモナドと呼んでいる。《これから論じられるモナドとは、複合的なものに含まれている単純実体に他ならない。単純とは、部分がないということである》《複合的なものがあるのだから、単純実体がなくてはならない。複合的なものは単純なものの集まり、つまり集合体に他ならないからである》(6)。(但し、モナドはアトムではない。このことは後で述べる)。

 個体の地位は常に哲学上の議論の的になって来た。いわゆる普遍論争がこの議論を凝縮している。実在論者によれば、実体は一般的な概念としてあり、特殊な存在である個体はそれの偶然的な現れでしかない。例えば、一匹の犬は「犬」という概念の偶然的な現れである。他方、唯名論者は個体のみが実体としてあり、一般的な概念はそこから経験的に抽象されたものに過ぎないと考える。唯名論者によれば、「犬」という概念は、互いに異なる無数の犬から経験的に抽象されたものである。ライプニッツの実体の考え方も、一見、唯名論者のそれと類似している。ライプニッツもまた、個体のみが実体として存在すると考えるからである。しかし、ライプニッツの議論は、いわゆる唯名論とは一線を画している。

 ライプニッツは『人間知性新論』の中で、本来は《個々の事物しか存在しない》のだが、個々の事物が常にそれぞれ個別的な別個の名で呼ばれることは不可能であるから、言葉の大部分は一般名詞で占められているのだ、と書いている(7)。ここで思い起こすべきなのは、個体は、本来、固有名でしか名指すことが出来ない、ということである。互いに異なる無数の犬といったところで、それら一つ一つは、本来的には固有名で呼ばれるべき個体、それぞれが異なっている個体なのである。我々は薄々このことに気づいてはいる。なぜなら我々が出会う犬(a dog)は常に、――「犬」というもの(the dog)ではなくて――ある固有名で呼ばれるべきこの犬(this dog)だからである。しかし、ライプニッツの指摘する言語の便宜上の都合から、個体は本来固有名で名指されるべきであるというこの真実は隠蔽されている。唯名論者が考える一匹の犬も、実は、経験的に抽象されたものに過ぎない。それは一般的な「犬」から見られたところの一匹の特殊な犬なのである。

 ライプニッツが思考しようとした個体は、実在論も唯名論も取り逃がしてしまっているような、固有名で名指されるべき個体である。そして、先に示唆しておいたとおり、このこと――すなわち、ライプニッツは固有名で名指されるような個体を実体として考えていたということ――と、彼の可能世界論は、切り離せない。これから見るように、固有名についての議論は、可能世界論なしにはあり得ないのである。私はその関係について考えるために、ソール A.クリプキの固有名詞論を一つの補助線として引いてみたい(8)。というのも、クリプキはライプニッツの考えた可能世界論に全面的に依拠して、その独自の固有名詞論を展開しているからである。

 

クリプキの固有名論

 クリプキは、名前(固有名)の理論を考えるに当たって、フレーゲとラッセルの「固有名の記述理論」にまず疑問を投げかけた。

 ラッセルの記述理論とは以下のようなものである。

 [1]アリストテレスは犬が好きだった。

この言明をラッセルは、

 [2]古代最後の偉大な哲学者は犬が好きだった。

という具合に分析されるべきであり、これはさらに、

 [3]古代の偉大な哲学者たちのなかで最後の人はまさにただ一人であり、かつそのよ うな人は誰であれ犬が好きだった。

という具合に分析されるべきであると考える。

 すなわちラッセルは確定記述の束として、固有名詞を考えた。固有名詞を確定記述へと還元することで、論理学上で固有名詞を扱おうとしたのである。

 しかし、クリプキはこれに異を唱える。固有名詞は指示固定的でなければならない。しかし、ラッセルの基準によれば、アリストテレス以外の誰かが古代最後の偉大な哲学者であったような反事実的状況に関しては、その別の人が犬好きであることが[1]の正しさを左右することになってしまう。

 このことは、別の言い方をすれば次のようになる(こちらの方が説得的だろう)。

 [4]アリストテレスは哲学者ではなかったかもしれなかった。

この命題は真理を表現しているが、これはラッセルの記述理論では説明がつかない。なぜなら、「古代の最大の哲学者は哲学者でなかったかもしれなかった」という言明は無意味だからである。ここに記述理論の限界が露になる。固有名詞は、確定記述の束には還元しきれない。固有名詞の指示固定性は確定記述の束には還元できないのである。

 クリプキは固有名を、ラッセルのように確定記述に置き換えるのではなくて、可能世界論を導入することでそれを説明しようとした。可能世界とは、クリプキの定義によれば、《「世界がありえたかもしれないあり方」の全体、あるいは世界全体の諸状態ないしは諸歴史のこと》(9)である。固有名詞(名前)は次のように説明されている。

 

《ある言葉があらゆる可能世界において同じ対象を指示するならば、それを固定指示子(rigid designator)と呼ぼう。そうでない場合は、非固定的(nonrigid)または偶然的指示子(accidental designator)と呼ぼう。もちろん我々は、対象がすべての可能世界に存在することを要求しはしない。(……)ある性質がある対象に本質的であると考える時、我々は普通、その対象が存在したであろうどんな場合においてもその性質はその対象について真となる、と言っているのである。(……)
この講義で私が主張しようとする直感的なテーゼの一つは、名前[固有名詞]は固定指示子であるというものである。》(10)

 

 ライプニッツの考える実体、すなわちモナドと呼ばれる個体は、このように規定された固有名で名指される個体に他ならない。アルノー宛書簡の中では、アダムの例を挙げて、後にモナドと呼ばれることになる実体について説明している。我々の知る現実のこの世界においては、アダムは罪を犯し、そしてカインとアベルという子供をもつ。しかし、我々は、それとは異なる無数の可能的アダム――例えば、罪人でないアダムや、カインとアベルという子供を持たないアダム――を考え得る。罪人でないアダムや、カインとアベルという子供を持たないアダムは、それ自体においては矛盾していないからである。我々はこれら無数のアダムを、すべて「アダム」と呼ぶことが出来る。ライプニッツはこう言っている。《したがってもし現実的アダム[我々が知る現実のこの世界の罪人アダム]が、時とともに、これこれしかじかの子孫を持つことになるとすると、この同じ述語を、この可能的と考えられたアダムに付与することに、異を唱えることは出来ない》(11)。つまり、我々は無数の可能的アダムを考え得る訳だが、アダムという固有名は主語として、それらすべての可能的アダムの述語を付与され得る。「アダムは罪を犯した」、「アダムは罪を犯さなかった」、「アダムはカインとアベルという子供をもつ」、「アダムはカインとアベルという子供を持たない」といった文はすべてそれ自体においては可能的であり、矛盾を含んではいない(「それ自体においては真」とは「事実はどうであれ、その文自体の真理値は真である」という意味である)。我々は、アダムという主語に、「罪を犯した」、「罪を犯さなかった」、「カインとアベルという子供をもつ」、「カインとアベルという子供をもたない」といった述語をすべて付与し得る。アダムという固有名はあらゆる可能世界において指示固定的である。

 そして、そのような固有名で名指されるところの個体こそがライプニッツにとっての実体、すなわちモナドなのである。ライプニッツのモナドが、固有名で名指される個体でないならば、『モナドロジー』は可能世界論を持たないはずである。(また、実体、モナド、必然と偶然、あるいは可能世界について論ずるときライプニッツが、決まってアダムやシーザーなどの固有名詞で呼ばれる個体を引き合いに出すということも、彼がモナドを固有名によって名指される個体と考えていたことの一つの例証となるかもしれない。)

 

モナドと特異性

 モナドは単純実体であり、部分を持たない。では、モナドは、《部分がない》と定義されるところのもの、すなわち「原子」(アトム)なのか。確かに、『モナドロジー』には《モナドは自然の真のアトムである》(§3)という表現が見られる。しかし、ライプニッツは一貫して原子論を否定している。《物質が原子から合成されているのではなく現実に無限に分かたれているのだということ》(12)。《何人かの人々は原子や空虚があると信ずるにさえ至っています。言い換えれば、原子と共に空虚を、あるいは少なくとも空虚を排除した流体の中を泳いでいる原子といったものがあると信ずるに至っているのです》(13)。『人間知性新論』では、その序文における《原子論を破る》という表現をはじめ、随所で原子論が否定的に論じられている。ライプニッツが、その主著と呼ばれるほどにシステマティックに書いたテクストを、それまで否定し続けて来た説に基づいて展開しているとは考えがたい。ならば、先程引用した、モナドをアトムに準えた表現は、単にモナドのイメージを喚起するために差し当たって用いられたに過ぎないと解釈するのが妥当である。実際、『モナドロジー』のなかでは、「アトム」という語は冒頭の3節で使われた後は一度も使われない。

 このことは、しかし、モナドがアトムではあり得ないことの本質的な理由ではない。モナドは、本質的に、アトムとは区別されねばならない。それらの間には、個体を把握する態度の上での決定的な差がある。というのも、アトム論が措定するアトムという個体が一般性と特殊性の回路の中で把握されているのに対し、モナドはそのような回路には所属し得ないものとして捉えられているからである。

 既に明らかにしたように、ライプニッツにとって、実体すなわちモナドとは固有名詞で名指されるような個体のことであった。我々はこの解釈をライプニッツの可能世界論から引き出した。ライプニッツの可能世界論は、思考の真理(必然的真理)と事実の真理(偶然的真理)との区別により成り立っている。一般に、必然と偶然という言葉は曖昧な意味で使われている。しかしライプニッツは、極めて明解かつ簡潔に、必然と偶然の区別を行う。彼の定義によれば、その反対が矛盾を含んでしまうものが必然、その反対が矛盾を含まない、すなわちその反対の可能世界を考え得るのが偶然である。よって、ライプニッツにとって、歴史という事実の連鎖は偶然以外の何ものでもない。このことは、現実とは、他でもあり得たのだが、しかし、それにもかかわらず他ならぬこれだ、ということを意味している。我々は、シーザーがルビコン河を渡らないという可能世界を考え得る。にもかかわらず、我々が事実として知るこの世界においては、シーザーはルビコン河を渡ったのである。つまり、我々がシーザーという固有名詞で名指すのは、他であり得たにもかかわらず他ならぬ、このシーザーなのだ。

 「シーザー」というという名の人間はおそらく無数にいるだろうから、我々が単に「シーザー」と口にしたときは、それらの個体を指し得る訳である。しかし、我々がそれを固有名詞として用いるときには、シーザーはこの個体、このシーザーを名指す。「シーザー」という名の諸個人としてとらえられた個体(前者)と、シーザーという固有名詞によって名指された個体(後者)には決定的な違いがある。前者は交換可能・置換可能なものとして捉えられているのに対し、後者は交換不可能・置換不可能である。分かりやすい例で言おう。親は、「ある一人の子」(un enfant)を愛する時、「子というもの」(l'enfant)すなわち「子一般」(l'enfant en general)を愛するのではない。この子(cet enfant)を愛するのである。この子が死んでしまったら、たとえ次の日に別の子が与えられたとしても、その親は決して満足出来ない。この子は交換不可能、置換不可能なのである。その場合、この子とは、固有名で呼ばれるこの個体であり、「子というもの」「子一般」には決して所属しない個体である。

 ジル・ドゥルーズの規定に従って、「特殊と一般」という回路には所属しようのないものとして捉えられた個体、固有名として捉えられた個体、他ならぬこれとして捉えられた個体を、特異的(singulier, singular)と形容し、それを、一般性(generalité, generality)から見られた特殊な(particulier, particular)個体とは区別することにする。ドゥルーズは一般性(generalité)と特殊性(particularité)とを次のように定義している。《一般性は、どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうるという視点を表現している。もろもろの個別的な[特殊な]ものの交換ないし置換が、一般性に対応するわたしたちの行動の定義である》。他方、特異性(singularité)は《交換不可能、置換不可能》である(14)。

 「子一般」から見られた「ある一人の子」は、「子というもの」の構成要素としての特殊な個体であり、この場合、「ある一人の子」は交換可能・置換可能な個体として捉えられている。しかし、「ある一人の子」が、かけがえのないこの子として固有名で名指されたときには、この子は特異なものとして捉えられている。この子は一般性には所属しようのない固有名で呼ばれるようなこの個体である。「子というもの」、「子一般」が存在しているのではない。「ある一人の子」こそが存在しているのであり、「ある一人の子」とは、固有名詞で呼ばれるべきこの子なのだ。つまり、普遍的に存在しているのは、「ある一人の子」なのである(この点において、特殊性と一般性が対応するのに対し、特異性と普遍性が対応するといことが指摘できる)。しかし、個体が特殊なものとして捉えられるか、それとも特異なものとして捉えられるか――すなわち、「ある一人の子」が、「この子」として捉えられるかそれとも「子というもの」として捉えられるか――は、捉える側の態度如何による。例えば、「子供は嫌いだ」と口にする人は、「ある一人の子」を「子というもの」「子一般」として捉えるだろう。その人にとっては、「ある一人の子」は単に一般性から見られた特殊な存在なのである。我々が特殊性と特異性を混同してしまう理由はそこにある。

 ライプニッツは、自ら論ずるところの実体すなわちモナドによって、この特異性を表現しようとしている。モナドとは、他でもあり得たにもかかわらず、この世界のこれなのである。石黒ひではこのことを、スコラ哲学の用語である「これ性」 haecceitas (英語では通常 this-ness と訳される)を使って説明している。

 

《ライプニッツが言うように、個体的実体(つまり、この現実世界の真の個体)の本性は、その特定のこれ性haecceitasに対応する完全な個体概念を持つことである。しかしながら、別の可能世界に存在するもののこれ性など捉えることは出来ない。》(15)

 

 《その特定の「これ性」 haecceitas に対応する完全な個体概念》とは、まさしく固有名で名指されるところの特異性に他ならない。そして、われわれがそれで持って指し示す個体とは、この世界のこの個体なのであるから、《別の可能世界に存在するものの「これ性」など捉えることは出来ない》のである。ドゥンス・スコトゥスは「これ性」と対で「何性」 quidditas (英語では通常 what-ness と訳される)という言葉を使った。「この個体は何であるか?」(これに対しては「子供である」すなわち「子供というものである」という返答が考えられ得るだろう)という態度で把握される個体は、「何性」 quidditas の次元、一般性の次元で捉えられている。他方、固有名で名指されるようなこの個体は、そのような一般性には所属しようのない「これ性」 haecceitas をもつ特異な個体なのである。

 アトムとは、全体を構成する構成要素の意である。それは常に部分と全体という回路、特殊と一般という回路に所属している。それは常に交換可能・置換可能である。しかし、モナドとは固有名で名指されるような個体、特異的と捉えられたこの個体、「この性」を持つ個体である。ライプニッツがモナドという新しい言葉を使わねばならなかった理由はここにある。ライプニッツは、アトムで指し示されるような個体すなわち一般性から見られた特殊性としての個体とは違う個体の捉え方をモナドという語で示そうとしたのだ。モナドをアトムと取り違えることは、特異性を特殊性と混同することである。

 

 我々は「シーザーがルビコン河を渡る」という文において、シーザーというモナドを特異的な個体と捉えている。つまり、我々は、シーザーの特異性を、あくまで「ルビコン河を渡る」という出来事において把握している。上記の記述ではこの点は強調されてはいない。しかし、モナドと特異性について考察するためには、「出来事」という概念の検討が不可欠である。そして出来事の問題を考えるためには、我々は、ライプニッツの「大原則」と呼ばれるものから検討を始めなくてはならない。

 


(1)クラーク宛書簡(1716年8月18日)、工作舎版、9巻、p.333、§4
(2)アルノー宛書簡(1686年7月4日/14日)、工作舎版、8巻、p.258
(3)『モナドロジー』§33、工作舎版、9巻、p.219
(4)『理性に基づく自然と恩寵の原理』§5、工作舎版、p.249
(5)言うまでもなく、非ユークリッド幾何学やウィトゲンシュタインの言語ゲームについて知っている我々にとっては、これらがライプニッツの言うところの必然的真理たり得るか――すなわち、あらゆる可能世界において妥当であるかは疑問である。ローレンス・ブキオ氏も、その著書L'harmonie et le chaos Le rationalisme leibnizien et la «nouvelle science»(Laurence BOUQUIAUX, louvain-la-neuve editions de l'institut superieur de philosophie, 1994)の中で《ライプニッツは数学の公理の慣習的性格を理解していなかった》(p.252)と言ってこの点を指摘している。この問題については2章でもう一度触れる。
(6)『モナドロジー』§1及び§2、工作舎版、9巻、p.206
(7)『人間知性新論』、工作舎版、5巻、第3部1章、p.14
(8)以下の記述は全面的に、ソール A.クリプキ著『名指しと必然性』(八木沢 敬、野家 啓一 訳、産業図書、1985)に依存している。
(9)同上、p.20
(10)同上、p.55
(11)アルノー宛書簡(1686年7月4日/14日)、p.270
(12)デ・ボス宛書簡、1710年8月4日、工作社版、9巻、p.156
(13)『フィラレートとアリストとの対話』、工作社版、9巻、p.48
(14)Gilles Deleuze, Difference et repetition, 1968, Presses Universitaires de France, P7(財津理 訳、『差異と反復』、河出書房新社、1992、p.19)
(15)石黒ひで、『ライプニッツの哲学』、岩波書店、1984年、P208。ライプニッツもまた、『形而上学叙説』§8において、haecceitasの概念を使ってアレクサンダーの個体概念を説明している。
 
序 章  理論と現実
第一章 ライプニッツにおける個体
 個体と可能世界/クリプキの固有名論/モナドと特異性
第二章 ライプニッツにおける出来事
 述語は主語に内在する/出来事と特異性
第三章 ライプニッツにおける系列
 系列/共可能性/事後的抽象、遡行的視線
第四章 ライプニッツにおける最善の世界
 予定調和と自由の問題/最善の世界
終 章  ライプニッツと多様性