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[卒業論文]ライプニッツと世界の再構築③ 第二章

第二章 ライプニッツにおける出来事

 

 ライプニッツの思想には「大原則」と呼ばれるものがある。それは次のようなものだ。《述語がすべて主語の本性の内に含まれているのである》。(1)《およそ真なる肯定命題においては、必然的・偶然的、普遍的・特殊的の如何を問わず、述語の概念はいわばつねに主語の概念の中に含まれている》。(2)

 これに対しては、既に、伝統的解釈というものが成立していが、それは「大原則」の孕む意義を十分に汲み尽くしているとは言い難いものである。我々は、そのような解釈に異議を唱えつつ、ライプニッツにおける「出来事」の問題へと考察を進める。

 

述語は主語に内在する

 「大原則」は、カントが言うところの分析判断として理解されて来た。カントの言う分析判断とは、述語が主語の概念の内に含まれているものとして主語に属する場合の判断であり、それに対して総合判断は述語が主語の概念のそとにある場合の判断である(3)。バートランド・ラッセル(4)が提起したこの解釈は今でも支配的だ(というのも、ライプニッツの論理哲学の再評価が、ラッセルの仕事によって始まったからなのだが)。例えば、西谷裕作氏は、次の一節――《あらゆる肯定的な真なる命題においては、……述語の概念は何らかの仕方で主語の概念のうちに含まれている。述語ハ主語ニ内在スル。もしそうでないなら、私には真理が何であるか分からない》(5)に、《つまりカント的な意味で分析的であることが、命題の真理性なのである》という解説を加えている。(6)

 常識的に考えるならば、命題の真理性は述語の観念の主語の観念への内在に依存するということと、偶然的真理と必然的真理を区別することとは矛盾しているだろう。なぜなら、あらゆる真なる命題の主語の観念が述語の観念をも内在しているのならば、あらゆる真なる命題は必然的であるとも言えるからである。ローレンス・ブキオもその点を指摘している(7)。しかし、これはライプニッツにおける可能世界論を無視するが故に見いだされる矛盾に過ぎない。

 ライプニッツにとっての必然的真理とは、その逆が矛盾となるような真理であり、偶然的真理とは、その逆が矛盾を含まないような真理、すなわちその逆が真であるような可能世界が考え得るような真理であるということは既に見たが、このことは、言い換えれば、必然的真理とはあらゆる可能世界において真であるような真理であり、偶然的真理とはこの世界において真であるような真理であるということだ。そして、《大原則》はそのどちらにも適用されるのである。つまり、必然的真理を表明する命題の主語は、あらゆる可能世界においてその述語を含む。他方、偶然的真理を表明する命題の主語は、この世界においてのみその述語を含む。必然的命題は分析的であり、偶然的命題は総合的であると考えるとき、ラッセルはライプニッツの可能世界論を看過している(だから、私は、ライプニッツの思想に、カントの分析的/総合的という区別を導入することにあまり意味があるとは思えない)。

 カントには可能世界論はない。しかし、ライプニッツの「大原則」がカント的な分析判断であるとして解釈される際にはこのことは無視されている。それゆえ、ライプニッツにおけるカント的な総合判断の概念の欠如を批判的に論じることができるのだ。近年、カントが数学の判断を先験的総合判断と規定したことは、それが数学の公理的性格を予想していた――現代数学、とりわけ非ユークリッド空間をも説明し得る――という点において評価されている(8)。カントは数学上の判断を総合判断だとした。これは、言い換えれば、数学上の判断は必然的ではないということだ。例えば、カントは、「三角形の内角の和は二直角である」という真の命題において「三角形の内角の和」の概念なかに「二直角」の概念は含まれてはいない、と考えたのである。現在では、この命題が前提にしているユークリッド空間は慣習的なものであり、非ユークリッド空間というものが成立し、そこでは三角形の内角の和が二直角にはならない、ということはだれもが知る常識である。だからカントにおける総合判断の概念の存在は、彼の思想の決定的な先駆性・現在性の証明とされ、ライプニッツにおけるその欠如は、彼の思想の決定的な限界の証明とされてしまっている――特にライプニッツは数学者として高名であるがゆえになおさらそうなのだ。しかし、ライプニッツは可能世界論を考え、カントはそれを考えなかったという差異がある以上、「分析的」――すなわち主語が述語を含むということ――という言葉の意味も、両者においては異なるのであり、単純な比較は危険である。

 ともあれ、わざわざカントと数学の話を引き合いに出したのは、単に、ライプニッツの「大原則」をカント的分析判断の枠内に制限してしまうという支配的な解釈から、それを、とりあえず、解放するためであり、我々はライプニッツにおけるカント的な分析判断/総合判断の問題をいまここで長々と論じる訳にはいかない。我々の関心は、別のところ――すなわち大原則のもう一つの定義にある。

 

出来事と特異性

 大原則は次のような言い方でも表明されている。

 

《それぞれの実体に起こることは、もっぱらその実体の完全な観念あるいは概念から出てくる結果にすぎない。それは、この観念がすでにすべての述語すなわち出来事を含んでいて、宇宙全体を表出しているからである》(9)(傍点引用者)

 

 ライプニッツが述語と呼んだのは、「出来事」である。彼は述語を属詞とは考えていない。

 前章で我々は、ライプニッツにとっての実体すなわちモナドとは、固有名で名指されるような個体であるという解釈を提起し、そのような個体を特異性という言葉で表現した。しかし、前章の記述は若干不正確だったかもしれない。というのも、これまでの記述では、あたかも「シーザーは特異である」という言明が可能であるかのごとくに聞こえてしまうからだ。このような言明の中では、上で精密化したところの「特異性」の概念が全く変容してしまっている。それは、もはや、一般性-特殊性の回路の中に回収されてしまっている。

 ある個体が、この個体として捉えられる、すなわちある個体が「特異な」と呼ばれるのは、あくまでその個体が、その個体に起こる出来事と共に捉えられている時である。例えばライプニッツは、神はアレクサンダーの「これ性」(haecceitas)を見るとき、常に同時に、彼について語られ得るすべての述語、ダリウスやポルスに勝つという出来事をそこに見るのだ、と言っている(10)。シーザーがルビコン河を渡らない可能世界を我々は考え得る。しかし、我々の知るこの世界においては、シーザーはルビコン河を渡った。シーザーが特異な個体として捉えられるのは、他でもあり得たにもかかわらず、彼が行った他ならぬ「ルビコン河を渡る」というこの出来事と共に、なのである。個体の特異性は出来事とともにしか確保されない。あるいは、別の言葉で言えば、個体の特異性は特異的な出来事のそばで構成される。《それぞれのモナドはいくつかの特異な出来事を凝縮している》が、しかし、《人はそれらを「シーザーがルビコン川を渡る。彼はブルータスによって暗殺される」という形式でしか述べることはできない》(11)。前章で例にあげた、親にとっての子供の特異性も同じだ。《たとえば、乳児たちはみな似たりよったりで、個体性をほとんど持たない。しかしそれらには、笑みひとつ、しぐさひとつ、しかめっ面ひとつといった特異性、主体的性格とは無縁の出来事がある》(12)。

 ドゥルーズはライプニッツの出来事の概念についてこう言っている。《述語 predicat は動詞 verbe であり、動詞は繋辞(コプラ)copule や属詞 attribut には還元できないというのが、ライプニッツの出来事の概念の基礎である》(13)。ドゥルーズによれば、ライプニッツは《主語-動詞-目的補語》(sujet-verbe-complement)という図式で思考しており、そしてこの図式は《主語-繋辞-属詞》(sujet-copule-attribut)という図式に古代以来抵抗してきたものである(14)。例えば、ライプニッツは、旅行をするもしないも私の自由であり、旅行をすることと旅行をしないことのどちらも私の概念には含まれ得るのだ、と言っている(15)。「私」が含むのは、「旅行をする」という特異的な出来事である。《述語は「旅行の実行」、行為、運動、変化なのであり、旅行するものという状態ではない》(16)。だから、ライプニッツの考えによれば、「私は旅行をする」を「私は旅行をするものである」には還元できないし、《述語付け predication は属詞付け attribution ではない》(17)。(「罪人である」という属詞は、「罪を犯す」という動詞によって既に構成された主語の述語なのである)(18)。ライプニッツのこのような主語の捉え方は、デカルト主義者のそれにたいする批判になっている。後者が常に主語から出発するのに対し、前者は常に述語から出発する。ライプニッツによれば、述語すなわち出来事は主語に先行している。言わば主語が述語すなわち出来事によって要請されるのである。したがって、述語すなわち出来事が主語の特異性を構成する。アダムというモナドの特異性が確保されるのは「アダムが罪を犯す」という言明においてなのである。「罪を犯す」という述語が特異的な出来事を表明し、アダムのモナドの特異性を構成するのである。

 出来事の例として我々は、「ルビコン河を渡る」とか「ブルータスによって暗殺される」とか「旅行をする」などを取り上げた訳だが、これらの例からも分かるとおり、出来事とは瞬間的な事実という意味ではない。私は出来事という言葉を使うとき、ホワイトヘッドが精緻化した出来事の概念を念頭に置いている。ホワイトヘッドは出来事という概念に関してこう言っている。

 

《我々は出来事をある通俗劇ふうな特質に結びつけることに慣らされている。もし、ある人が車にひかれたとすると、それはある時間的-空間的制限をうけている一つの出来事である。我々はある一定期間ずっと存続している大ピラミッドを出来事として考えることに慣らされていない。しかし、一日を通じてその大ピラミッドが存在するという自然的事実は、それによって大ピラミッド内部の全自然を意味しているのであり、さきにのべた車にひかれた人の事件と同じ性格の出来事である。》(19)

 

 出来事は、第一に、一つの「持続」である。持続と言った時、もちろん我々はベルクソンの持続の概念を思い起こさねばならない(20)。ベルクソンによれば、持続はその性質を変えずに分割されることはなく、分割されることによってその性質を変化させてしまう。持続は量ではなく、純粋な質である。例えば《運動は持続の中にあり持続は空間の外にある》(21)。このことを理解していなかったがために、エレア学派はアキレスと亀のパラドックスという錯覚を起こしてしまった。《我々の意見では、運動と運動体が通過した空間とのこのような混同から、まさに、エレア学派の詭弁も生まれたのである。なぜなら二つの点を分かっている間隔は無限に分割可能であり、それでもしも運動が間隔そのものの部分のような諸部分から構成されているのであれば、その間隔は決して超えられることはないだろうからである。しかし事実は、アキレスの歩みの一つ一つが単一で不可分の行為であり、このような行為を必要な数だけ行った後では、アキレスは亀を追い越してしまうだろう。エレア派の連中の錯誤は、彼らがこの不可分で独自の一連の行為をその下に横たわっている等質の空間と同一視することから由来する》(22)。「ルビコン河を渡る」という出来事も、一つの持続である。それは、確かにいくつもの構成要素――部分的出来事――よりなるが、しかし、「ルビコン河を渡る」という出来事は、それ以上分割すればその性質を変えてしまう。《持続は明らかに自然的実質》であり、《持続は部分的出来事の一つの複合体として弁別される》(23)。

 そして第二に、出来事は「延長」の観念によって特徴付けられる。《自然の連続性は延長から出てくる。出来事はすべて、他の出来事を超えて延長しており、また、出来事はすべて、他の出来事によって超えて延長されている》(24)。諸々の出来事はある系列をなしている。ある出来事はそれ自体一つの「全体」であるが、それは同時に他の出来事にとっては「部分」であるかもしれない。「ブルータスによって暗殺される」というのは一つの事件としての全体性をもっている。しかし、同時にそれはまたシーザーの独裁政治という一つの事件の部分でもある。出来事は《未来の出来事とともに遠い過去の出来事を含んでいなければならない》(25)。《持続はすべて、他の持続の部分となっている。そして、同時に持続は、すべて、その部分となる他の持続を有している。したがって最大の持続も、また、最小の持続も存在しないのである。したがって、持続にはいかなる原子的な構造(atomic structure)も存在しないのである》(26)。

 

 我々は、個体の特異性は、個体に起こる出来事の特異性、モナドが含む《述語すなわち出来事》の特異性によってのみ確保されるのであり、出来事によってこそ個体の特異性が構成されるということを確認した。

 するとここで、次のような疑問が提起されてしかべきである――なぜ、他の可能的な出来事ではなくて、ある出来事は起こるのか? ライプニッツは出来事の連鎖(27)、出来事の因果関係をどう考えていたのか?

 


(1)『実在的現象を想像的現象から区別する仕方について』、工作社版、8巻、p68(2)アルノー宛書簡、1686年7月4日/14日、工作社版、8巻、p.272
(3)主語と述語との関係を含む判断は《述語Bが主語Aの内にすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属するか、さもなければ述語Bが主語Aと結び付いてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるか、これら二つの仕方のいずれかである。私は第一の場合の判断を分析的判断と呼び、また第二の場合の判断を総合的判断と名付ける》。カント『純粋理性批判』(篠田英雄訳)、岩波文庫版、p.65
(4)『ライプニッツの哲学』(細川薫訳)、弘文堂、1959年
(5)アルノー宛書簡、1686年7月4日/14日
(6)工作社版、9巻、p.216、註62
(7)《あらゆる真の命題にとって述語は主語に含まれているのであれば、あらゆる真なる命題は必然的に真ではないのだろうか?》、Bouquiaux、前掲書、p.251
(8)例えば、G・マルチンは次のように言っている。《カントははっきりと次の如くに言っている、「原則も亦矛盾律から認識されるであろうと確信した――正にこの点に於いて彼等は間違っていたのである。」そして彼がライプニッツ及びその信奉者たちのことを「彼等」と言っているのだということは明白である。カントはさらに続けて「純粋幾何学のどんな原理も同様に分析的ではない」と言っている。数学が諸原理に基づいており、又数学が、今日我々が言うが如くに、公理的性格をもっているという自己の確信をはっきりと表わすために、カントがこれ以上に明瞭にどのように表現すべきであったであろうかは、私には分からない。》(『数理哲学の歴史』、齋藤義一訳、理想社、昭和38年)
(9)『形而上学叙説』、14節、工作社版、8巻、p.166
(10)同上、8節
(11)Gilles Deleuze, LE PLILEIBNIZ ET LE BAROQUE~, Les Editions de Minuit, 1988, p.114
(12)Gilles Deleuze, L'immanence:une vie……(Philosophie, n.47), Editions de Minuit, 1995
(13)『形而上学叙説』§8、工作舎版、p.154
(14)LE PLI、p.71
(15)アルノー宛書簡、1686年7月4日/14日、p.263
(16)LE PLI、p.71
(17)LE PLI、p.71
(18)ジル・ドゥルーズ、『意味の論理学』(岡田弘、宇波彰 訳)、法政大学出版局、「第16のセリー 存在論的な静的生成について」を参照
(19)A・N・ホワイトヘッド、ホワイトヘッド著作集第4巻『自然という概念』(藤川吉美 訳)、松籟社、1982
(20)以下の著作を参照。アンリ・ベルクソン、『時間と自由』(平井啓之 訳)、白水社、1990。
(21)同上。P.108
(22)同上。P.107
(23)『自然という概念』、p.62
(24)同上。P.68
(25)同上。P.61
(26)同上。P.68
(27)アーサー・O.ラヴジョイ、『存在の大いなる連鎖』(内藤健二 訳)、晶文社、1975、(The Great Chain of Being:A Study of the History of an Idea, Cambridge, Mass., 1936;1961) 第5講「ライプニッツとスピノーザにおける充満と充分理由について」を参照のこと。

 

序 章  理論と現実
第一章 ライプニッツにおける個体
 個体と可能世界/クリプキの固有名論/モナドと特異性
第二章 ライプニッツにおける出来事
 述語は主語に内在する/出来事と特異性
第三章 ライプニッツにおける系列
 系列/共可能性/事後的抽象、遡行的視線
第四章 ライプニッツにおける最善の世界
 予定調和と自由の問題/最善の世界
終 章  ライプニッツと多様性