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[卒業論文]ライプニッツと世界の再構築④ 第三章

第三章 ライプニッツにおける

 古代より因果性の問題は次のようなアポリアの周囲を巡って来た。すべての出来事には原因があるように思われるのだが、しかし、すべての出来事に原因があるとすると、すべては物事の始まりにおいて既に決定されていたことになってしまい、意思の自由は損なわれてしまう……。我々は前章で、ライプニッツにおいて「出来事」の果たす役割を見た。「出来事」の問題は因果性の問題と拘わらざるを得ない。なぜなら、出来事が特異的なものであるかぎり、その他の起こり得た出来事ではなくて、この出来事が起こったのはなぜなのかということを説明せねばならないからである。ライプニッツは因果性の問題をどう考えていたのか。

 

 ストア派は因果性について興味深い逆説的な考え方をしている。そのような考え方は、必然と運命を対立させることから来ている。例えば、『運命について』の中でのキケロによる次のような説明を見よ。

 

 《ことごとくの言明が真か偽かのどちらかであるからといって、「不変の、しかも、永遠不変の原因が実在していて、その働きにより、およそどのような事柄でも、予定されている起こりかたとは異なったかたちで起こることは、できないようになっている」という結論が、そこから直ちに得られる訳ではないのです。
 たとえば、「カトーが元老院へやって来るであろう」という主張は、いくつかの原因が当の事実を結果として産みだすことによって、真なる主張となるのではあるのですが、そういう原因は、じつは、偶然的な原因なのです。つまり、これらの原因は、当の事実に関係のある個々の物の本来的特性とか、宇宙の秩序とかの中に、封入されてはいないような原因なのです。それにもかかわらず、「カトーがやって来るであろう」ということは、それが真であるばあいには、「カトーがやって来た」ということと同じように、変化しえない事柄であるのです。》(1)

 

 このテクストの中でキケロは、《必然のさだめというものを斥けると同時に、「あらかじめ定められている原因によらなければ、なにごとも起こらないのだ」という見解をもっていた人》(2)であるクリュシッポスの説を肯定的に語る。クリュシッポスによれば、《「万事は運命によって起こる」ということの意味は、「時間的に先行しているとともに、必然のさだめとしてもはたらくような、そういう原因によって、万事は起こる」ということではない》(3)。約言すれば、ここで展開されているストア派のパラドックスとは、必然は否定するが、運命は肯定するということだ。

 突然耳にしたならば不可解な、このストア派の逆説も、ライプニッツによる明解かつ簡潔な必然と偶然の定義を知る我々にとっては、さほど難解なものではないだろう。ライプニッツによれば、必然的な事柄とはその反対がそれ自体において矛盾をはらんでしまうような事柄であった。他方、偶然的な事柄とはその反対がそれ自体において矛盾を含まないような事柄である。ライプニッツは前者を思考の真理あるいは必然的真理と呼び、後者を事実の真理あるいは偶然的真理と呼んだ。ライプニッツによれば事実とは偶然的である。上のキケロからの引用の中で展開されているのも、このことに他ならない。「カトーが元老院にやって来た」という事実はその反対が矛盾を含まない事実の真理であり、それは《偶然的な原因》によって引き起こされたのである。よって事実は必然的ではない。しかし、偶然的であれ、事実には原因、きっかけがあり、事実は鎖のようにつながっている。この連鎖が、ストア派の言うところの《運命》である。

 ライプニッツならば、ストア派の《運命》を「系列」(série)と呼ぶだろう。実際、イヴォン・ベラヴァルが指摘するように、セリーという語で「事物の連鎖」を指示する用法はストア派に溯る(4)。例えば、ライプニッツは「大原則」を次のような仕方でも表現している。

 

 《どの個別的実体もそれぞれの仕方で宇宙全体を表出していること。また、個別的実体の概念には、その実体に起こってくるすべての事柄が含まれているだけではなく、その出来事に伴うすべての状況や外的な事物の全系列も含まれていること。》(5)(強調は引用者)

 

 ライプニッツは出来事およびそれに伴う状況や事物を一つの系列という線として捉える。そしてそのような系列の束、寄せ集まりが世界を構成する。ライプニッツのイメージする世界とはそのような系列の束である。《諸状態の連鎖とか諸事物の系列といったもの、つまりその寄せ集まりが世界を構成している諸事物の系列》(6)。モナドは世界を表現しているというのはライプニッツの有名なテーゼであるが(例えば『モナドロジー』§62)、これは単に表現するモナドのなかに述語が内在しているという意味ではなく、《表現されている世界が、それを表現しているモナドの外側には存在せず、したがって、その世界はモナドに内在する述語のセリーとして、モナドの中に存在する》(7)ということである。世界なるフィールドがあってその中にモナドが投げ込まれているのではない。諸モナドに内在する偶然的事物の諸系列、特異的な出来事の諸系列が世界である。モナドはいくつかの得意な出来事を凝縮しており、この世界は、それを表出する諸モナドの外には存在しない。「モナドが世界を表出する」というテーゼはこのことを意味している。

 ホワイトヘッドはこう言っている。

 

 《われわれの感覚意識は、直接的識別のためにある全体を指定し、それをここでは「持続」と呼んでいる。したがって持続は明らかに自然的実質である。持続は部分的出来事の一つの複合体として弁別される。……「持続」という語は、もし、それがたんなる抽象的な時間の伸長(stretch)を示唆するものであるならば、おそらく、不幸なものであろう。これは私が意味するところのものではない。持続とは、感覚意識に開示された本質的要因である同時性によって限定されている自然の具体的厚板(concrete slab)である。
 自然とは過程である。感覚意識に直接提示される一切の事物の場合のようには、自然のこうした特性についてはいかなる説明もなしえない。ただなしうることといえば、それを推論的に指示しうる言葉を用いることであり、また、自然におけるこの要因の他の要因に対する関係を表現することである。
 それぞれの持続が出現し、推移するということが自然の過程(process of nature)の描写である。自然の過程は、また、自然の推移(passage of nature)とも名付けられる。……この学説において、私はベルクソンの立場と完全に一致している、と思っている。もっとも、彼は、わたくしが「自然の推移」とよぶ基本的な事実を「時間」と呼んではいるが。自然の推移は、また、時間的な移り行き(transition)だけではなく、同様に、空間的な移り行きにおいても等しく示される。自然が常に前進しているのは、そうした推移によってなのである。感覚意識のすべての働きがまさに、その働きであって他の働きでないというだけでなく、それぞれの働きの末端(terminus)までもが独自(unique)のものであり、他のいかなる働きの末端でもないということが、「前進していく」というこの特性の意味に含まれている。感覚意識はその唯一の機会をとらえて、われわれの認識に対してそれだけのためにある何かを提示してくれるのである。》(8)

 

 ホワイトヘッドは、ライプニッツが「世界」と「系列」と呼ぶものをそれぞれ「自然」と「過程」と呼んでいる。この用語の相違さえ理解すれば、これは見事なまでの、ライプニッツ的世界観の要約であると言えるだろう。世界なるフィールドがあってその中にモナドが投げ込まれているという世界観のもとに、「モナドは世界を表出している」といテーゼを理解すれば、このテーゼは「部分は全体であり、全体は部分である」といった全体主義的なイメージを免れることができず、哲学的には一元論となるだろう。しかし、ライプニッツにとっては、出来事だけがあるのであって、世界というフィールドがあるのではないのだ。

 

共可能性

 諸セリーは分岐する(diverger)。例えば、罪人であるアダムと罪人でないアダムは、それぞれ可能的であるだろう。セリーの分岐点において、可能世界が構成される。よって、この世界は、一つの規則に沿って収束する(converger)諸セリーの束である。すべて可能なるものが現実化する訳ではない。ライプニッツは収束する無限の諸セリーを総合する規則として《共可能性》 composibilité なる概念を提出する。『二十四の命題』の中の次の部分は、これに関する諸規定をコンパクトにまとめている。

 

 《§6――そういう訳で、すべて可能的なるものは存在しようとしていると言われることができる。…(以下略)…
 §7――しかしここから、すべての可能的なるものが存在するという帰結にはならない。もし帰結するとすれば、それは可能的なるものがすべて共可能的(compossibilia)であるという場合をおいてないのであろう。
 §8――しかし、(実際は)可能的なるもののうちには相互に非整合的なもの(incompatibilia)もあるので、或る可能的なるものは存在には至らないという帰結になる。さらに、可能的なるもののうちに相互に非整合的なものがあるのは、同時的な関係においてだけでなく、普遍的にもまたそうなのである。なぜなら現在のうちには未来が含まれているからである。》(9)
 

 ライプニッツはアルノー宛書簡の中で、アダムの例を用いて《共可能性》なる概念を説明している。罪人でないアダムはそれ自体においては矛盾しておらず、可能的である。しかし、罪人でないアダムと罪人であるアダムとの間には確かに矛盾と呼ばれる関係がある。これは、その中でアダムが罪人であるような世界と、罪人でないアダムとが矛盾するからである。罪人アダムというモナドはアダムの原罪と共可能的(compossible)/整合的な(compatible)(10)未来・過去の出来事だけを含んでいる。我々の知るアダムとは異なる可能的アダムが、我々の世界とは非共可能的(incompossible)であるとすれば、それはそのアダムが、我々の知っているアダム、あるいはキリスト、あるいはライプニッツから得た世界のセリーとは異なるセリーの特異性を内に含んでいるからである(11)。(神は罪人としてのアダムを創造したのではなく、アダムが罪を犯した世界を創造したのである)。

 ドゥルーズは共可能性・非共可能性の諸規定を次のように簡潔に整理している。

 

 《次のものを共可能的と呼ぼう、1)ある一つの世界を構成するところの、収束し、そして延長し得る諸セリーの総体、2)同じ世界を表出する諸モナドの総体(罪人アダム、皇帝シーザー、救済者キリスト……)。次のものを非共可能的と呼ぼう、1)収束し、そしてそれ故に二つの可能世界に属する諸セリー、2)そのそれぞれが、互いに異なる世界を表出するような諸モナド(皇帝シーザーと罪人でないアダム)。》(12)

 

 「すべてに理由がある」という、ライプニッツが提示した有名な「充足理由律」も、共可能的な出来事のセリーと共に考えられねばならない。充足理由率は、例えば、次のような一節に提示されている。

 

 《何ものも十分な理由無しには生じない、言い換えれば、何ものも、事物を十分に認識する者に対して、それがそのようであって他のようでないのは何故かを決定するのに十分な理由を呈示できるのでなければ、生じない。》(13)

 

 ヴァルテールが撒き散らした充足理由律の通俗的解釈により、ライプニッツはしばしば決定論者として語られて来た。しかし、偶然的真理/必然的真理、可能世界、特異性、出来事といった概念を検討して来た我々の耳には、もはや、上に引用した充足理由律の一つの定義からは、いかなる決定論の倍音も響いてはこない。充足理由律とは、すべての出来事には必然的な理由がある、という意味ではない。それは、すべての出来事には必然的に理由がある、という意味である。出来事はすべて偶然的である。その反対が矛盾を含まないのであるから。その出来事は他のようでもあり得た。しかし、その出来事は《そのようであって他のようでない》のだから、そのことについての理由が存在する。充足理由律とは、《偶然的諸事物のセリー》(14)についての原理なのである。ライプニッツはよく、《強いずに傾ける》(incliner sans nécessiter)という文句を使うが(15)、これはこのことを表現している。すなわち、我々の世界においてシーザーがルビコン河を渡ったということには理由がある。しかし、シーザーがルビコン河を渡ったという事実は必然的ではない。つまりシーザーをしてルビコン河を渡らせたきっかけは、ルビコン河を渡るように彼を傾けたのであり、彼にルビコン河を渡るように強いた訳ではない。《理由は傾かせるが強制することはない》(16)。

 では、《何ものも十分な理由無しには生じない》のならば、《諸事物の偶然的なセリー》を溯って行った先には何があるのか。理由 raisonなしにはあり得ないところの《諸事物の偶然的なセリー》それ自体を発生せしめた原因 cause とは何なのか。

 

 《もはや他の理由を必要としない十分な理由は偶然的諸事物のこの系列の外になければならず、その系列の原因であり、自分の現実存在の理由を自らもっているような必然的存在者である実体の内に見いだされなければならない。そうでなければ、そこで終わりにし得るような十分な理由をまだ手に入れることにはならないであろう。そして諸事物のこの究極的な理由は神と呼ばれる。》(17)

 

 ライプニッツにとって神の存在は必然的である。すべてに理由があるのなら、最初の原因がなければならないのだから。ライプニッツによれば、神には事象の全系列が見えているのであり、神はその中から、例えば、アダムが罪人であるような世界を創造する。神には、可能的なものの総体が見えている。それは可能的なセリーすべてを束ねたカオスである。その中から、共可能的な出来事のセリーが生産される。共可能的な出来事が生産される様は、ドゥルーズの卓抜な比喩を用いて言えば、《ふるい》(crible)と表現されうるだろう(18)。無数の可能的なものの束であるカオスから、共可能的なものが《ふるい》にかけられる。

 諸々の出来事を諸事物の偶然的なセリーとして捉え、可能世界論を展開しようとすれば、このようなカオスを想定し、さらにそこからセリーを開始させるものとしての神を想定せざるを得ない。だから、ライプニッツにとって神の存在を言明することは不可避であったが、にもかかわらず、彼をして神の存在を言明させた動機は非常に消極的なものであった。ライプニッツ自身もこのことを語っている。《もしも神を消してしまったら、諸事物の全体的なセリーも消えてしまう》(19)。

 

事後的抽象、遡行的視点

 但し、確認しておかねばならないのは、カオスは存在しない、ということである。可能的なものの総体としてのカオスは、あくまで抽象操作を経て想定されるものにすぎない。それは事後的に、遡行的に想定されるものに過ぎない。そもそも、可能世界自体が事後的に、遡行的に想定されるものである。それはSFに出てくる平行世界などとは区別されなければならない。《可能的なものとは、実は、後から生産されたものであり、またその可能的ものに類似している[実在的な]ものに似せて、あたかも以前から存在するかのように捏造されたものである》(20)。

 これは自由の問題を考える際に提起される問題である。なぜなら、自由の問題――すなわち、ある行為者がある行為Xを行った時、その行為者は別の行為Yを行うことができたのか否か――は、常に、その行為Xが行われた後の時点において、事後的に、遡行的に提起されるからである。ベルクソンは自由の問題を通じて、可能的なものを問う際

の論者の立脚点あるいは視点について微に入り細を穿った分析を行った(21)。ベルクソンはある一つの図を描く。その図には、意識事象の一系列を示す線分MOがあり、MOは点Mにおいて二又に分かれ、分かれた線分はそれぞれOXとOYと指示されている。意識がMOを通過した後、O点に達し、OXとOYという二つの方向を前にして取るべき二つの決心について熟考し、結局その一つを選ぶ、という自我の姿は常識を満足させるものである。しかし、自由の擁護者とその反対者にとっては、この選択の解釈こそが問題となる。両者の論点を、ベルクソンは次のようにまとめている。

 

 《もし私がXをえらぶとすれば、自由の擁護者たちは私に告げるだろう。貴方はためらい、思案した、だからYも可能だったと。反対者たちは応ずるだろう。あなたはXをえらんだ、だからあなたにはそうする理由があったわけだ、それでYも同じく可能であったというときには、その理由を忘れていることになる、問題のいくつかの条件のうちの一つを別に除いているのだと。――今、これら二つの対立する解決の下を深く究めてみると、共通の一つの公準が見いだされるだろう。すなわち、両者は共に行動Xがすでに果たされてしまった後に身を置いていて、わたしの意志的活動の過程をO点で二つに別れるMOなる道であらわし、OXとOYの線は、Xを終点とする連続的活動のさ中に抽象作用が区別する二つの方向を記号的に示すようになる、ということである。しかし決定論者たちがその知っているすべての事実を考量して、MOXという道が通過されたことを認めるのに対して、その反対者たちは、この図形を作り上げた与件の一つを無視するふりをして、両方が一つになって、自我の活動の進行をあらわすはずのOXとOYという線を引いてしまった後で、自我をO点にまで後戻りさせて、そこで新しい命令のあるまで迷わせておくのである。
 実際、心的活動の空間内へのまったくの分身であるこの図形は、純粋に記号的であり、またそのようなものとしては、思案が終わり、決心がついたという仮定に立たぬかぎり、作られることのできないものだ、ということを忘れてはならない。》(22)

 

 両者の議論は不毛な水掛け論だ。というのも、ここには問題の立て方自体に誤りがあるからである。彼らが論じているのは偽の問題なのだ。問題は自由の擁護者も反対者も共に、行動の終点に位置しているにもかかわらず、あたかも自身が行動の中途にいるかのごとくに選択について論じている。両者は共に行動Xがすでに果たされてしまった後、すなわちMOXという道が通過された後に身を置いていて、私をO点まで後戻りさせて論じている。実際このような図はある選択についての決心がついたという仮定に立たない限り作られないものである。まえもって図を書いておいてもだめである。《この図は果たされつつある行動ではなく、果たされた行動を私に示している》(23)。この線が記号としてあらわすものは《流れつつある時間ではなく、流れ去った時間である》(24)。だから、私がMOを通過して、Xの方に決めたとき、Yを選ぶことができたのかできなかったのか、などという問いは無意味である。ベルクソンに言わせれば、このような図を書いて自由を論ずることは、《時間を空間によって、継起を同時性によって、十全にあらわしうるものだと認めること》(25)なのである。

 可能世界やあらゆる可能性の総体としてのカオスについて論じているとき、我々は、ベルクソンが引き合いに出した図を描いているようなものである。我々はそれらを論じる際に、常に終わりの地点に立って問題を論じている。ライプニッツもまたそうである。しかし、そのような視点は回避しがたいのである。ある種の概念を操作する際には、その視点が不可欠になってしまうことは、これまでに考察して来た諸概念――固有名で名指されるものとしてのモナド、特異性、偶然的真理・必然的真理など――を思い起こせば、明らかだろう。興味深いのは、ライプニッツがこのような図を描きながら思考しているにもかかわらず、自由の擁護者たちがするように、ある行為の理由を無視するふりをしたりもせず、また、決定論者たちのように、すべては必然的に決定されているとも言わない、ということだ。彼は、すべてには理由がある、と明言すると同時に、偶然的真理と必然的真理の区別を導入する。これは、ライプニッツが、ベルクソンの指摘するあの図に固有の視点の危険性とともに、その視点の不可避性をも同時に見据えていたことの証拠であるだろう。

 

 重要なことは、この視点のもつ危険性にどれだけ警戒していられるかということだ。ならば我々は、ライプニッツがこの警戒心を持っていたのかどうかを検証しなければならない。そしてその作業は、おそらく、ライプニッツの哲学の最も有名なテーゼ――すなわち、予定調和あるいは最善の世界のテーゼの中で行われなければならないのである。

 


(1)キケロ、「宿命について」(水野有庸 訳)in『世界の名著 キケロ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』、中央公論社、p.253
(2)同上、p.264
(3)同上、p.267(但し原文にある「宿命」という訳語は必然性のニュアンスを孕み過ぎる感があるので「運命」という訳語に変更させていただいた。)
(4)G.W.LEIBNIZ, LA PROFESSION DE FOI DU PHILOSOPHE(texte, traduction et notes par Yvon BELAVAL), Librairie Philosophique J.Vrin, p.119(notes 38).
(5)アルノー宛書簡、1686年2月1日/11日、p.218
(6)『事物の根本的起源について』、工作舎版、8巻、p.93
(7)ドゥルーズ、『意味の論理学』、p.142
(8)『自然という概念』、p.62
(9)『二十四の命題』、工作舎版、8巻、p.48
(10)以上の規定から明らかなように、共可能性は、俗流ダーヴィニズムの鼓吹する自然淘汰という言葉とは何ら関係を持たない。後者は現実化した事物に関して言われるのに対し、共可能性は可能態にあるセリーが現実化する過程に関係する規則だからである。そもそも、諸セリーが互いを抹消しあうという考えは、ライプニッツ的な世界のイメージからは程遠いものである。
(11)ライプニッツは《共可能的》という言葉と《整合的》という言葉をほとんど区別なく用いている。
(12)LE PLI、p.80
(13)『理性に基づく自然と恩寵の原理』、工作舎版、9巻、p.252
(14)同上、p.251
(15)例えば、次の一節を参照。《かくて、もし必然性が人間の確実な決定と解されているとしたら、つまり、人間の内外で生起するあらゆる事態についての完全な認識によって完全な精神が予見し得るような決定、と解されているとしたら、確かに、思考はそれが表現している運動と同様に決定されているのですから、いかなる自由な行為も必然的なものとなります。しかし、決定されてはいるが偶然的なものから、必然的なものを区別しなければなりません。偶然的真理が必然的真理でないというだけでなく、それらの連結もまた必ずしも絶対的必然性をもつわけではないのです。なぜなら、必然的なものの領域で[あるものから他のものが]生じる推論の一貫性と、偶然的なものの領域で生じるそれとの間には、決定の仕方に差異があるのを認めるべきだからです。幾何学的で形而上学的な推論の一貫性は必然的に結果するのですが、自然学的で道徳的な推論の一貫性は強いずに傾かせます。》『人間知性新論』、工作舎版、4巻、p.205
(16)『形而上学叙説』、工作舎版、8巻、p.160、§13
(17)『理性に基づく自然と恩寵の原理』、p.251
(18)LE PLI、p.103
(19)LA PROFESSION DE FOI DU PHILOSOPHE, p.41
(20)Gilles Deleuze, Différence et répétition, p.273(邦訳、『差異と反復』、P319)
(21)ベルクソン、『時間と自由』、第三章
(22)同上、p.165
(23)同上、p.166
(24)同上、p.167
(25)同上、p.166

 

序 章  理論と現実
第一章 ライプニッツにおける個体
 個体と可能世界/クリプキの固有名論/モナドと特異性
第二章 ライプニッツにおける出来事
 述語は主語に内在する/出来事と特異性
第三章 ライプニッツにおける系列
 系列/共可能性/事後的抽象、遡行的視線
第四章 ライプニッツにおける最善の世界
 予定調和と自由の問題/最善の世界
終 章  ライプニッツと多様性