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[卒業論文]ライプニッツと世界の再構築⑤ 第四章

第四章 ライプニッツにおける最善の世界

 

 ライプニッツの哲学の中で最も有名であり、そしてまた最も悪名高いのが、彼の予定調和という考え、最善の世界という考えである。ライプニッツの最も辛辣な批判者であったヴォルテールの批判の中心も、まさしくそこにある。しかし、予定調和や最善の世界についての批判を中心としたライプニッツは批判は取るに足りないものが多い。そうした「批判」の名を借りた否定を行うものたちは、ライプニッツを読もうとしないのだ。我々は、カントが用いた意味での、あるいはマルクスが用いた意味での《批判》を、ライプニッツに対して行うべきである。それは、ライプニッツの限界まで、すなわちその非一貫性と同時にその可能性を読み取ることができる地点まで読むことを意味する。

 

予定調和と自由の問題

 例えば、『モナドロジー』のなかでは、ライプニッツは予定調和を次のように説明している。

 

 《七八――これらの原理によって、私は魂と有機的な身体との結合、すなわち一致ということを自然的に説明する方法を得たのである。魂はみずからの法則にしたがい、身体もまたみずからの法則にしたがう。それでも両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだに存する予定調和のためである、どの実体も同じ一つの宇宙の表現なのであるから。》(1)

 

 ライプニッツにおいて予定調和はさまざまな形で定式化されており、あるときは自然と恩寵の間に(『自然と恩寵の原理』§15)、あるときは魂と身体の間に(『弁神論』序文)、あるときは物質的世界と魂の間に(『生命の原理と形成的自然についての考察』、クラーク宛書簡1716年8月18日)、あるときは単純実体と複合実体の間に(デ・ボス宛書簡の随所)、あるときは諸モナドの間に、調和が見いだされている。

 我々は調和が予定されているという考え方には何かしらの違和感を持つ。なぜ、我々は予定調和という考えに対して違和感を抱くのか。そしてまた、予定調和を主張したとの廉でライプニッツを批判する者たちの批判の論点は何なのか。私の考えでは、おそらく、それらの違和感あるいは批判は、ヘーゲル的な歴史観あるいは現実観への違和感・批判として集約され得るものである。ヘーゲルは歴史を理性の展開として見る。ヘーゲルによれば、《現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である》(2)。よって、ヘーゲルにとってはすべてが必然的である。例えば、次の有名な植物の比喩は、彼のヴィジョンを典型的に示すものだ。

 

 《人々は哲学説の間に差異があるのを、真理が進歩してゆく発展過程としてとらえることなく、差異のなかに矛盾しか見ない。――花が咲けば蕾が消えるから、蕾は花によって否定されたと言うこともできよう。同様に、果実により花は植物のあり方としてはいまだ偽であったことが宣告され、植物の真理として花にかわって果実が現れる。植物のこれらの諸形態は、それぞれ異なっているばかりでなく、たがいに両立しないものとして排斥しあっている。しかし同時に、その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらはたがいに争いあわないばかりでなく、どの一つも他と同じく必然的である。そして同じく必然的であるというこのことが、全体としての生命を成り立たせているのである。》(3)

 

 ヘーゲルにとっては、世界史には偶然はあり得ない。すべては必然的な理性の展開の過程である。ヘーゲルがそう主張できるのはなぜなのか。それは彼がすべてを結果において見るからである。

 

 《真なるものは全体である。そして全体とは、自分を展開することによって自分を完成してゆく実在にほかならない。絶対者については、それは本質的に結果であり、終わりにおいてはじめて、それが真にあるところのものになる、と言わなければならない。現実的なものであり、主体であり、自己生成であるという、絶対者の本性はまさにこのことにおいて成り立つ。》(4)

 

 ヘーゲルは常に、終わり/目的の地点に立っている。《絶対者は本質的に結果として把握されるべきだ》(5)。ヘーゲルは常に結果から、結果に至る運動の過程を全体として見るのである。だから、彼の目にはすべてが必然的なものとして映る。もちろんこれはヘーゲルの思想のあまりに粗雑な要約ではあるが、しかし、ヘーゲル的な視線の輪郭を辿るための説明としては決して的をはずしてはいない。

 我々が予定調和という言葉を聞くときに感じる違和感とは、このような視線に対する違和感である。すべては、結果から眺めれば調和していると言えるのだ。神の見えざる手が機能不全に陥る不況という現象も、次の景気循環を導くための過程として見れば、「全体」と調和している。都市全体を破壊する地震であっても、都市の再構築という結果から見れば、その都市の歴史という「全体」とは調和している。

 しかし、我々は既に前章の終わりにおいて、ベルクソンの力を借りて、このような視線の虚偽性を見た。ベルクソンが引き合いに出した図は、このヘーゲル的な視線を代表している。時間を空間として図に表してしまうとき、我々は、流れつつある時間ではなく流れ去った時間を、果たされつつある行動ではなく果たされてしまった行動を処理しているのであり、それは真の持続を決して表象することはない。いったんこのような図に基づいて、時間を思考してしまえば、MOXという行動の経緯は紛れも無く必然的なものとなり、人は決定論者であるほかはない。それでもなお自由の擁護者たらんとし、Xを選ぶ際にはYも等しく可能であったのだと主張するならば、――ベルクソンの示唆するとおり――この図を作り上げた与件のひとつ、すなわちXを選択した理由を無視するふりをしなければならない。

 ヘーゲル的な視線とは、まさしく、ここでベルクソンが決定論者と呼ぶものたちの視線である。ヘーゲルはあの図を描き、それを作り上げた与件をどれ一つとして無視せず、そして次のように言うのだ、それら与件のすべてが一つの全体を構成しており、すべてには理由がある、と。ここにいたって、我々はライプニッツがよりいっそうヘーゲルに接近していることを知るだろう。なぜなら、ライプニッツもまたすべてには理由があると言ったからである。

 しかし、ライプニッツの立場は限りなくヘーゲルに近く見えることはあっても、決してそれと重なり合うことはない。それは、ライプニッツが現実の偶然性を執拗に主張するからである。このことはこの小論において何度も確認して来たことである。ライプニッツによれば、事実Xは偶然的である、なぜならその反対Yはそれ自体矛盾を含まないから。すると、ライプニッツは、ベルクソンによる決定論者と自由の擁護者という区分において、非常に奇妙な位置に立っていることになる。彼は、すべてには理由があり(充足理由律)、世界には神によって予定された調和がある(予定調和)と主張するにもかかわらず、自由の反対者のように、すべては決定されているなどとは言わない。彼は事実は偶然的だと主張するにもかかわらず、自由の擁護者たちのように、与件を無視したりはしない(充足理由率)。

 ベルクソンによれば、我々は自由を論じる際に、流れつつある時間すなわち現在を考えなければならないのに、いつも、流れ去った時間をそれと取り違えている。だからベルクソンは何とか、流れつつある時間を語ろうとする。ベルクソンは流れつつある時間のイメージとして、「持続」――その性質を変えることなく分割されることはなく、分割されることによってその性質を変えてしまうもの――という概念を提起する。彼が引き合いに出した図は、持続がその性質を変えることなく分割され得る、すなわち持続をMOとOX/OYという部分に分けることができるという思い込みの上に成り立っている。ただ、敢えて持続を分析してみれば、我々は持続の中での未来の前駆的形成というものを見いだすことができる。この説明は常識をも満足させるものだ。

 

 《実際、われわれは意識の継起的な諸状態を通過するものであって、次にくるものが先行するものの中に含まれていたわけではないが、われわれは程度の差こそあれ漠然と次にくるものについての観念を思い浮かべていたのである。もとより、この観念の実現は確実なものとして現れていたわけではなく、単に可能的なものとしてあらわれていた。しかしながら、観念と行動とのあいだには、ほとんど感じられないほどの媒介物が介入して来たったのであって、その総体が、われわれに対して、努力感と呼ばれるあの独自の形をとるのである。そして観念から努力へ、努力から行為への、その進行は、きわめて連続的なので、観念と努力とがどこで終わるのか、行為がどこではじまるのか、言うことができないほどである。それで、ここでもまたある意味において未来が現在の中に前駆的に形成されていたと言うこともできると考えられる。けれども付言すべきはこの前駆的形成がきわめて不完全だ、ということだ。なぜなら、現在その観念がもたれている未来の行動は、実現可能とは考えられているが、実現ずみのものと考えられているわけではなく、その行動を完成するために必要な努力の下ごしらえができたときでさえも、いまだ思いとどまる時間はあるのだ、ということがはっきりと感じられるのだから。》(6)

 

 ここで、ライプニッツの「魂は強いられることなく傾けられる」という定式を想起しよう。我々はある未来の前駆的形成を行うがしかしそれは魂を「強いる」ほどに《必然的な》ものではなくて、魂を「傾ける」程度に《確実な》ものに過ぎない(7)。ベルクソンの説明は、ほとんど言葉にはできないようなことを言葉で表現しようとする困難に敢えて挑んでいるため、我々は、彼が説明せんとする持続の中の未来の前駆的形成を、彼のロゴスの力よりもむしろイメージの力によって体得する(8)。よってこの説明は、「曖昧だ」といわれてもいたしかたない。ライプニッツの「魂は強いられることなく傾けられる」という定式の曖昧さも同様のものである。ライプニッツと往復書簡を取り交わしたアルノーもクラークもこの曖昧さに納得できなかったのだ。

 

 ライプニッツは――例えばJ・S・ミルがそう呼ばれるところの意味において――折衷主義者であると言う人がいてもおかしくはない。ライプニッツは自由を擁護し、それと同時に充足理由率や予定調和を主張しているのだから。しかし、我々はライプニッツの折衷主義と呼ばれかねない側面に噛み付くよりも、彼が折衷と呼ばれかねない主張をしなければならなかった理由こそを考えるべきである。その答えはもう既に明らかだろう。ベルクソンが引き合いに出した図を用いて思考することは、まず一般的に不可避だ。我々は歴史と現実を終わりの地点に立ってしか観測することはできないのだから。また、あの図を用いて思考することはライプニッツにとってはなおさら不可避である。逆説的にも、現実の偶然性を強調するためには、あの図――現実の必然性を主張することになってしまう図――に従って思考しなければならない。ある行為Xが偶然的であることを示すためには、ある行為Xの逆であるYがそれ自体矛盾しないということを示さねばならないのである。そして、まさしくその現実の偶然性という考え方のうえに、ライプニッツの可能世界論、固有名で名指される個体としてのモナド、「この性」haecceitas、特異性といった諸々の概念が立脚している。しかし同時にライプニッツはあの図を用いて思考してしまうことに対して尋常ならざる警戒心を持っていた。あの図を用いて思考すれば、すなわち、終わり/目的の地点に立って思考すれば、すべては終わり/目的のための必然的な過程となってしまう。であればこそ、彼は現実の偶然性を強調し続けた。あの図を用いると同時に、それを突き放すような態度を保持していた。

 

最善の世界

 伝記的な事実を確認すれば、ライプニッツは三十年戦争後のヨーロッパの再構築を模索し、実際に、オム・アンガジェとして――例えば教会合同計画のために――画策、奔走していた。このような改革の人、ライプニッツが現状肯定の思想を抱いていたというのは、誠に、不可解な解釈である。しかし、神が数ある可能的な世界の中からこの世界を選んだのであるから、この世界は最善である、というロジックは、一見すれば現状を肯定し、人々に現状に甘んじることを強いるように思われる。実際、ライプニッツの物言いにはそう受け取られても仕方のない部分がある。

 しかし、このロジックは単に、その第一印象のみによって片付けられるべきものではない。最善律は、何よりも悪の問題とともに考えられなければならない。なぜなら、この最善律に対する常識的な反論は、「この世界が有り得べき世界の中で最善のものであるのなら、なぜこの世界には悪が存在するのか」というものであるだろうからだ。ライプニッツはこの反論にこう答える。

 

 《残された問題は、「なぜこうしたユダという裏切り者が、神のもつ観念のうちでは可能的であるのに過ぎないのに、現実に存在するのか」ということである。しかしこの問に対しては、この世界で期待しうる答えはない。ただ一般的に次のように言うべきである。「神はユダの罪を予見していたにもかかわらず、ユダが存在するほうが善いと思ったのだから、この悪は宇宙において十二分に償われているはずであり、神はこの悪からもっと大きな善を引き出してきて、結局この罪人の存在が含まれている事物の系列が、他のすべての可能なやり方の中で最も完全であることになるに違いない」と。》(9)

 

 石黒ひでも言うように、最善の世界とは最大限の数の多様なものが、実現されている世界を言う(10)。ここで、我々は、ライプニッツの用いる「共可能性」(composibilité)という概念が、いわゆる「自然淘汰」とは何らの関係も持たないということを再確認すべきである。自然淘汰とは、現実化したものが選別されていく過程を表す言葉であるが、共可能性とは、可能態にあるものが現実化する過程についての原理である。ライプニッツには、現実化したセリーがしのぎを削って淘汰しあうというイメージはない。《罪人が含まれている事物の系列》であれ、それはこの世界と共可能的なセリーなのだ。還元不可能なまでの不和というものは異なる世界の間にあるのだから。

 しかし、だからといって、罪人が劫罰されないのではない。

 

 《そういう訳で、すべての精神は、人間であれ霊であれ、理性と永遠真理のおかげで、神との一種の社交を持つに至り、神の国の一員なのである。言い換えれば、最大で最良の君主によって建てられ治められている最も完全な国家の一員なのである。その国では罪が罰せられないことはなく、善行がそれに応じた報酬を受けないこともなく、要するに可能な限りの徳と幸福とがある。》(11)

 

 罪を犯すものは劫罰を受ける。この劫罰についてのライプニッツの考えは興味深いものである。ライプニッツによれば、断罪される者(le damne)は、彼が過去に犯した罪ゆえにではなくて、彼が現在神にたいして抱く憎しみゆえに断罪されるのである。よって、《断罪される者は永遠に断罪されるのではなく、「つねに断罪されうる」ものとしてあるだけである》(12)。《断罪される者は絶対的に断罪されるということはない。かれらは常に断罪されうる者にとどまるのである》(13)。だから、ライプニッツは断罪された者に、そこから立ち直る能力を認める(14)。

 ライプニッツにとって、最善の世界がもつ調和の中での悪は、協和音をなす音のセリーのなかにちりばめられた不協和音のようなものである。《卓越した作曲家たちはかなりしばしば不協和音を協和音に混ぜるので、聞き手は驚かされ、殆ど苛立たんがばかりになり、どうなることかと言わば不安になる》(15)。そしてこの不安は、ライプニッツにおいては積極的に肯定さるべきものである。《私たちを同じ状態に留まるように、あるいは同じ行為を続けさせるように仕向けるものは、私たちがそこに見いだしている現在の満足だけである。それとは反対に、変化に向かわせる動機は常に何らかの不安です》(16)。《意志を行動へと決定するものは、通常想定されているような最大の善ではなくて、むしろ何らかの現実的な不安、しかもたいていは最も差し迫った不安だということです。この不安には欲望という名称を与えてもよいでしょう》(17)。《ですから、この不安を至福と両立しないものとみなすべきであるどころか、私が思うには、不安は被造物の至福にとって本質的なのです》(18)。

 このようにライプニッツの最善の世界とは、――何らかの永遠的な価値が達成されてしまったような静的な世界ではなくて――ダイナミズム・生成変化を受け入れる能力を持った世界のことなのである。そして、現実の我々の世界はそのような「最善の世界」であるはずなのである。

 

 《ところで、万物にとっての原理が唯一つだけ存在し、しかもそれが完全に善であり賢明であるということを知るためには、啓示による信仰は必要ない。理性があればわれわれは誤つことなき論証によってこのことを捉えるからである。したがって、一連の事物から導き出された反論は不完全な点だらけであり、偽りの現象に基づくものでしかない。というのも、予定調和が理解できるならわかるはずだが、われわれが非難しようとしているものは実は本来最も選ばれるべき面と結び付いているからである。一言で言うなら、われわれは、神が作ったものが最善だということを、見知っているのであって単に信じているのではない。私がここで「見知る(voir)」と言っているのは、原因によってア・プリオリに知るということであり、「信ずる(croire)」というのは結果によってのみ判断するということである。》(19)

 

 ドゥルーズは最善の世界をこう記述している。《最善の世界とは、永遠的なものを再生産するような世界ではなく、新しいものが生産される世界、新しいもの、創造性をうけいれる能力をもった世界である》(20)。そのような最善の世界であるはずの我々の世界の性格を、我々は存分に発揮させるべきなのである。《それ故、過去に満足し、そして未来を最善のものとするように努力することが、神を愛するものの役目である》(21)。

 


(1)工作舎版、9巻、p.237
(2)『法の哲学』、藤野渉 赤澤正敏 訳、中央公論社、p.169
(3)『精神現象学』、山本信 訳、中央公論社、p.90
(4)同上、p.102
(5)同上、p.102
(6)『時間と自由』、p.192
(7)ライプニッツは随所で、必然と確実の区別について言及している。
(8)ベルクソンが扱う諸概念、例えば「強度」や「持続」などもすべてそのような性格を持っていると言えるだろう。彼は論理的に詰めるというよりも、むしろイメージの喚起力に助けを求める。
(9)『形而上学叙説』§30、工作舎版、8巻、p.196
(10)石黒ひで、前掲書、p.222
(11)『理性に基づく自然と恩寵の原理』§15、工作舎版、9巻、p.254
(12)Le Pli、p.97
(13)La Profession de Foi、p.95
(14)《この進んでなった頑迷さは罪を犯し続けることではないのだろうか。しかも私は、単に、人間は自ら立ち直れるのにそうしないから、とだけ言って済ますつもりはない。これに付け加えて、その人は、自ら立ち直るだけの恩寵の助けを受けつつ自助することがないからだ、とも言おう。しかし、生を終えた後になるとこの助けもなくなると考えられてはいるが、そのときでも、罪を犯す人間にとっては、たとえ現に断罪されてはいても、罪を犯す自由と、そこからまがりなりにも立ち直れる能力――ただし実際はその能力が実を結ぶことはないにしても――が常にある。この段階の自由は必然を欠いてはいても確実性を欠くことはなく、それは幸福な者の内にも断罪された者の内にも存すると言わざるを得ない。》(『弁神論』§269、工作舎版、7巻、p.35)
(15)『事物の根本的起源について』、工作舎版、8巻、p.99
(16)『人間知性新論』第2部、工作舎版、4巻、p.212
(17)同上、p.213。この一節において、「善」の権威が失効していることは注目すべきことである。ドゥルーズの次の言葉を参照のこと。《自分たちの世界は考え得る限りで最良の世界だ、とライプニッツが語るとき、この「最良」(le meilleur)は古典主義時代の善(le Bien)にとってかわり、まさに善の破綻を前提にしているのだということを忘れてはならない。》Gilles Deleuze, Pourparlers 1972-1990, p.220、(邦訳、『記号と事件』p.269)
(18)同上、p.220
(19)『弁神論』§44、工作舎版、6巻、p.81
(20)Le Pli、p.107
(21)La Profession de Foi, p.93

 

序 章  理論と現実
第一章 ライプニッツにおける個体
 個体と可能世界/クリプキの固有名論/モナドと特異性
第二章 ライプニッツにおける出来事
 述語は主語に内在する/出来事と特異性
第三章 ライプニッツにおける系列
 系列/共可能性/事後的抽象、遡行的視線
第四章 ライプニッツにおける最善の世界
 予定調和と自由の問題/最善の世界
終 章  ライプニッツと多様性