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映像の哲学 第2回

 -ブルース・ウェインの思い違い

 愛とは大きすぎるテーマである。一つの思い違いを通じて、その一側面へのアクセスを試みよう。取り上げたいのは、クリストファー・ノーラン監督『バットマン ビギンズ』(アメリカ+イギリス、2005年)である。言わずと知れた、ノーランによるバットマン三部作の第一作だ。
 主人公ブルース・ウェインは故郷のゴッサムシティを救うために、バットマンとなって街の不正や悪と闘おうとする。そのためにウェインは正体を隠す必要に迫られる。巨大企業ウェイン産業の社長であるブルースは、金持ちの遊び人を演じることでバットマンであることを人々から悟られないようにするのだが、遊び人として振る舞っているところを、自らが想いを寄せる幼なじみのレイチェル・ドーズに見られてしまう。ウェインはたまらず「これは本当の僕じゃないんだ」と言ってしまうが、レイチェルはそれにこう答える。“It is not who you are underneath, but what you do that defines you.” すこし固めに訳してみるとこうなる。「あなたが本当は誰であるのかではなくて、あなたが何をするのかが、あなたを決めるのよ」(1:11:08〜1:11:22)。
 物語のクライマックス、悪人たちに襲われるレイチェルをバットマンは助ける。その時にレイチェルは、「あなたは死んでしまうかもしれないから、せめて名前だけでも教えて欲しい」と彼の名を尋ねる。バットマンはこう答える。“It is not who I am underneath, but what I do that defines me.” もちろんこういう意味である──「私を決めるのは、本当は〔仮面の下では〕私が誰であるのかではなくて、私が何をするのかだ」(1:57:45〜1:57:59)。もちろん、レイチェルはバットマンがブルースであることに気づく。
 ブルースは自分が何をしているのかをレイチェルだけには知っていてもらいたいのである。そしてレイチェルの言う通り、人を決めるのはその人が何をするかであるから、検事としてゴッサム・シティを救おうとしているレイチェルは自分がバットマンとして闘っていることを理解し、自分を選んでくれるはずだと期待する。映画を観ている我々も、レイチェルとバットマンのこれらの台詞を尤もなことだと受け取る。
 ところが、ブルースの期待は裏切られる。次作『ダークナイト』(2008年)において、レイチェルはブルースを選ばない。なぜか。レイチェルにならなければ、本当のところは分からない。だが、我々はブルースの思い違いだけは理解することができる。
 愛はその人が何をしているのかに向かうのではない。愛はその人が誰であるかに向かう。
 このことを理解するうえで参考になることを哲学者のハンナ・アーレントが述べている。アーレントは「何(what)」と「誰(who)」の差異を論じている。たとえば、私が何であるかを規定することは難しくない。男性であり、日本国籍をもっており、大学教員であり云々。しかし、私は誰であるか。誰とは謎めいた疑問詞である。そして、愛はこの謎めいた疑問詞から切り離せない。
 私が何であるか、そして何をするかを私はある程度コントロールできる。しかし、私は自分が誰であるかをコントロールすることなどできない。「愛は、ある人が誰であるかという点にひたすら向けられている」。「どうしても愛は、愛された人格がもっているはずの取り柄や才能や欠陥だとか、その人が示したであろう業績や無能だとかいった点に関しては、盲目〔である〕」(ハンナ・アーレント『活動的生』森一郎訳、みすず書房、2015年、224頁)。
 善行を行う人間はまるで犯罪者のように自らの行いを隠さねばならないと述べるアーレントは、その他にもバットマンの真理を語っているように思われる。そして、愛についてのアーレントの説明を読むと、熱心にバットマンの活動に取り組むブルースの姿がとても切なく思えてくるのである。