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映像の哲学 第4回

服従と知性

 -犬に向けて銃を構える-

 銃を構える。銃を撃つ。銃で撃たれる。少なくとも私にとっては非日常的な光景であるが、しかし映画の中では実にありふれた光景である。映画の中で、我々は銃に慣れきっている。映画の中では銃は怖くない。そして、銃がもたらす帰結についても分かったつもりになっている。
 銃がもたらす帰結とは、一つにはもちろん、死であり、ケガである。だがもう一つ重要な帰結がある。銃には他人を服従させる力があるのだ。銃を向ければ人を思うがままに操れるのである。これは恐るべきことであると同時に驚くべきことである。刃物を構えることによっても、他人からある程度の服従を得ることはできる。だが銃ほどではない。刃物であれば、服従を強制されている相手にも相当に反撃の可能性、更にはこの強制と服従の関係を逆転する可能性があるからだ。銃の場合にもその可能性が全くないとは言えないが、しかし、それはかなり低い。銃はあまりにも小さな動作で、あまりにも大きな帰結をもたらすことができる。人差し指を動かすだけで、相手を死に追いやることもできる(もちろん実際には正確に構える必要があり、正確に構えるためには全身の運動と調整が必要なのだろうが、それはおいておこう)。この動作と帰結の不釣り合いこそが、銃による服従の獲得の基礎にある。あっという間に自分は容易く葬られうると思えばこそ、人は銃を構えた人間に従うのだ。
 こうやって考えてくると、銃による服従の獲得に実は大きな条件があることが分かる。それは銃によって「あっという間に自分は容易く葬られうる」のだと理解できるということである。つまり、銃によって他人の服従を獲得しようとする人間は、その他人に対して、銃のもたらす帰結を理解できるという知性を期待しているのである。この期待が裏切られるならば、相手を従わせようとする、銃を持った人間の目論見は全く実を結ばない。
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画『アモーレス・ペロス』(メキシコ、2000年)にはその意味で大変印象的なシーンがある。本編を構成する三つのストーリーの一つで、主人公の初老の男、エル・チーボは殺し屋ながら大の犬好きとして現れる。家にはたくさんの犬を飼っている。ある時、チーボは瀕死の大型犬を助け、これを介抱してやる。ある日、チーボが仕事から帰ると、完全に回復したその大型犬が、チーボの飼っていた犬たちをすべてかみ殺していた。
 チーボは怒りのあまりにその大型犬に銃を向ける。ところが、犬はそれを何とも思わない。お座りをして飼い主に忠実であるかのようだ(02:01:02~02:01:30)。銃のもたらす効果を理解できないがゆえにこの犬は銃を恐れない。
 チーボは銃の扱いにおいてはまさしく手練れである。銃が他人の服従をもたらしうることも、誰よりもよく分かっているだろう。だが、その技術も知識もここでは何の役にも立たない。チーボは自らの技術と知識の限界につきあたっており、その限界とは相手が自分と同じように自分の使う銃について理解してくれるという期待によってもたらされるものである。銃を構え、相手に向け、相手を従わせるという動作は、相手を非人間扱いしているように思えるし、或る意味では確かにそうであるけれども、実はその動作は、相手を人間と見なしている、しかも、高度な知性の持ち主であると見なしているがこそ行われうるものである。銃を構えるという動作にはある種の平等の観念が関わっている。あの何気ないシーンにはこんなことを考えさせる力がある。