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映像の哲学 第6回

殴 る

 -古畑任三郎とスレッガー・ロウ-


 前回、銃について書いたが、もっと原始的な暴力について考えてみよう。殴るというのはおそらく人間が行使してきた中でも最も古い暴力であろう。では殴るとはどういう行為だろうか。実は殴るといってもいくつもパターンがある。そのことを思い出させてくれたのは、田村正和の主演で人気を博したドラマ『古畑任三郎』の中でも特に人気がある、木村拓哉がゲスト出演の「EPISODE17/赤か、青か」(1996年1月31日放送)である。くだらない理由で遊園地に爆弾を仕掛けた大学助手の犯人、林功夫の手口を明らかにした後、古畑任三郎は木村拓哉演ずるこの犯人を「殴る」。では、古畑はいったいどう殴っていたか。古畑は右手を下から上に振り上げるようにして、手の甲で林の頬を打っている(00:46:18)。
 「殴る」というと、固く握りしめた拳を一度、頭の高さにまで挙げて、それを振り下ろすという動作が最初に思い浮かぶのではなかろうか。調べて見ると、どうやら、古畑はこの回で林にビンタをしていると、すなわち平手打ちを食らわせていると思われているようなのだが、ビンタすなわち平手打ちはいま言った、握りしめた拳を高く上げて振り下ろすという動作に似ている。どこが似ているのかというと、暴力の行使に向けての準備の動作が入っている点である。どちらの場合も、一度、手をある程度の高さにまで持っていって殴る行為の準備をしなければならない。そしてその動作は、「これからお前を殴るぞ」というメッセージの表現に他ならない。
 古畑の殴打が平手打ちと勘違いされており、また、「殴る」というと、高い確率で、握りしめた拳を高く上げて振り下ろすという動作が思い浮かべられるというのは実に興味深い。このことは、「殴る」が、往々にして、物理的なダメージを与えることよりも、威嚇して相手に言うことを聞かせることのために行われているという事実を示しているように思われる。つまり多くの場合、殴るという行為はある目的をもって実行されている。
 「手を上げる」という言葉がある。実に興味深い言葉だ。手を上げたから何だというのか。このような表現が存在しているのは、殴るという行為において重要なのは、相手に物理的なダメージを与えることではないからである。つまり、手を上げさえすれば、すなわち、腕の先を頭の高さにまで持ち上げさえすれば、それだけでもう目的が達成されてしまう、そういう状態を作り出すこと──すなわち相手が暴力の可能性を見ただけで怯えていいなりになること──、それこそ、殴ることが目指している最も一般的な目的なのだ。だからこそ、単なる準備段階の動作に過ぎない「手を上げる」が、殴ることのメタファーとして機能し得るのだ。
 林を殴る時、古畑は「これからお前を殴るぞ」というメッセージを発しうるような動作を一つもしていない。なぜならば、古畑の殴る動作には目的がないからだ。古畑は林に物理的なダメージを与えようとしているのではないし、また言うことを聞かせようとしているのでもない。古畑は林の身勝手な言い分に我慢ならなくなって彼を殴ってしまっただけである。ところが、我々が最もよく知る殴るという行為は、相手に言うことを聞かせるという目的の達成のために行われるものであるから、古畑の無目的な行為を、合目的的な動作であるビンタに結びつけて記憶してしまうのだ(学校でビンタが多用されていたことの理由はもはや明らかであろう)。
 もう一つ、忘れられない無目的的な殴りの動作をしていたのが、アニメ『機動戦士ガンダム』におけるスレッガー・ロウである。第34話「宿命の出会い」(1979年11月14日放送)において、許嫁のカムラン・ブルームが命をかけてホワイトベースを守ろうとしているのに、その話を聞こうとしないミライ・ヤシマを、スレッガーは「ばかやろう」と言って殴る(00:13:37)。その時にもスレッガーは右手を左肩のあたりまで持っていきながら、そのまま上に振り上げるようにして、手の甲でミライの頬を打っている。スレッガーにはもちろん目的などない。ただ、カムランの命がけの気持ちがなぜお前には分からないのだというその思いだけで手が動いたのだ。
 目的がなければ人を殴っていいわけではもちろんない。ただ、殴る動作を見ているとその人が言うことを聞かせるという目的を持って人を殴っているのか、そうではないのかが分かるという話である。