プレビューモード

映像の哲学 第7回

未 来

 -『わが谷は緑なりき』-

 ジョン・フォードの傑作、『わが谷は緑なりき』(アメリカ、1941年)。ウェールズのある炭鉱の街が舞台である。最初の約3分、既に荒廃した元炭鉱の街が描かれる。一目で炭鉱用なのだろうと分かる、底に無数のスパイクが打たれた使い古しのブーツ。登場人物は思い出を語りながら、母親が使っていたというショールに荷物を包み、そして街を出ることを我々観る者たちに告げる。

 これからこの人物が少年であった頃の街の話が語られるのである。ところが、この人物の顔は一度も映されない。ただ、首から下、手元までが映されるだけである。少年はこの老人になる。いや、この老人もかつては少年であった。それはなんと不思議なことであろうか。我々はこの少年が老人になることを知っている。それどころか、彼が後々はこの炭鉱の街を去ることまで知っている。少年の未来は決まっている。だが、少年がどういう顔をしているかは分からない。少年時代の顔しか分からない。

 我々が街を歩いていて幼子に出会う。彼らには未来がある。未来があるということは老いるということであり、運がよければ、彼らも老人になるのである。その意味で、これら幼子たちの未来は既に決まっている。彼らがどんな顔の老人になるのかは分からない。それは分からないのだが、老人になるという未来は決まっているのである。もしかしたら、もう少し具体的なことすらも分かるかもしれない。あの少年が炭鉱の街を去ることに匹敵する程度のことは、幼子たちを眺めているだけでも分かるかもしれない。

 更に驚くべきは、我々が街を歩いていて出会う老人たちは、必ず過去を持っており、必ず幼子であったという事実である。おじいちゃんは少年だったことがあり、おばあちゃんは少女だったことがある。それどころか、いかなる老人たちも赤子であったことがある。彼らは老人の顔を手に入れた。老人になることは決まっていたが、どういった老人の顔になるのかは決まっていなかった彼らは、既に老人の顔を手に入れたのだ。

 いかなる人間も必ず老人になるという意味で人間の未来は決められているということ、つまり、未来は人間にとって無限の可能性に開かれているわけではないこと、そして、老人たちは、例外なく、一人残らず、かつて、いかなる老人の顔になるのかは分からないが運さえよければ老人になることだけは決定していた幼き日々を生きていたということ、これは実に驚くべきことである。この映画はそれを開始後たった3分で描いてみせる。そして最後まで観ると分かるが、この映画自体が、この3分間の壮大なる反復なのである。映画の途中で描かれる恋の物語は、実のところ、この壮大なる反復によって人々の胸が張り裂けてしまうのを防ぐためにあるかのようだ。なぜならば、映画を見終わった後には、あの炭鉱用ブーツのシーンを人々は恋の物語でかき消してしまっているだろうから。そしてそれでよいのだ。映画を見終えた後に炭鉱用ブーツのシーンを思い出したならば、人間にとって未来は決まっているという驚くべき事実によって人々の胸は張り裂けてしまうだろうから。

 私もこの映画を思うたびに胸が張り裂けそうになる。だからそのことから注意を逸らすことのできる話をして終える。あの頃、炭鉱にとってウェールズとは、あるいはウェールズにとって炭鉱とは、いかなる意味を持っていたのだろうか。日本ならば、「炭鉱」というと、たとえば「三池闘争」をパッと思いつく人もいるだろう。ウェールズは炭鉱にとって何か特別な固有名であったのだろうか。