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映像の哲学 第9回

冒険心

 -BS世界のドキュメンタリー『壁の時代を生きて』-

 
 前回に続き、もう一つ、東ドイツ関連の映像を紹介したい(ドイツ統一20周年の年、2009年にBSで放送された全20回のドキュメンタリーシリーズの一つである)。
 “The Double Lives of the Berlin Wall”(Diverse Production, NHK / BBC / VPRO / DR, 2009(国際共同制作)。日本では、BS世界のドキュメンタリー『壁の時代を生きて』として、前篇と後編の二回に分けての放送だった。ここで取り上げるのはその後編(2009年11月11日放送)である)と題されたこのドキュメンタリーは音楽のセレクションがすばらしく、鑑賞後、音楽が頭から鳴り止まない。今回調べてみたところ、最も印象的に使われているその音楽はカナダのロックバンドGodspeed You! Black Emperor(ゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラー)のアルバム『F♯ A♯ ∞』(1997年)に収録された“East Hastings”という曲であることがわかった。
 本編の開始後、東ドイツ時代に警察官だった人物の短い話があり、そこから写真家ハラルトが自らのアトリエで或る人物の写真を探している場面になる。人物の名前はサッシャ・アンダーゼン。彼の写真も映されるが、いったい誰なのか。現在のアンダーゼンも登場する。このあたりから“East Hastings”が流れ、そのエレキギターのクリアサウンドで、観ている者は、寂しいのやら不安であるのやら、よくわからない気持ちにさせられる。
 ナレーションはアンダーゼンが東ベルリンの前衛芸術家の中で有名な詩人だったことを告げる。自由奔放なボヘミアンたちのグループに属していたという。ハラルトが見つけた写真、紹介される当時の写真は、ジョン・レノンのような丸メガネの奥にギラギラとした目が光る、いかにも前衛芸術家然としたアンダーゼンの姿を映している。調べてみたところWikipediaにはアンダーゼンの項目があって、1980年代にはロックバンドで演奏もしていたらしい(同サイトでは「アンダーソンAnderson」と表記されているが、ここでは映像に従う)。
 現在のアンダーゼンには、しかし、そのような雰囲気はない。無精髭を生やして頭髪も薄くなったごく普通の初老の男である。この男に、インタビュアーが尋ねる。
 「東独の話はしたくないのですか」。
 アンダーゼンはニヤニヤ笑う。いったいこの笑いは何なのだろう。大笑いでもなければ、人を馬鹿にした笑いでもない。大変印象に残る笑い方だ(00:05:56)。アンダーゼンは答える。
 「死んだおばあさんの話をするようなものだからね」。
 映像は記録映像に移る。東ドイツを支配していた秘密警察シュタージの紹介だ。反体制的と見なされた人物600万人分の個人データを収集していたこの組織は、1980年代、ゲシュタポやKGBを遥かに凌ぐ規模の巨大な組織になっていた。この巨大な組織を組織の外で支えていたのが、「協力者」と呼ばれた膨大な数の密告者たちである。密告者たちは家族や友人たちを監視し、その情報をシュタージに報告した。つまりスパイだ。
 画面にアンダーゼンが映し出される。食堂のような場所でインタビュアーが彼に尋ねる。
 「あなたはなぜスパイになろうと思ったのですか」。
 自由を求めて芸術や詩にのめり込み、社会に対して反抗的な態度を取っているかのようにも見えたかつての「前衛芸術家」は、当時、友人たちの情報をシュタージに密告していたスパイだったことが、こうして明かされる。ハラルトも友人だったアンダーゼンに密告された一人だった。ハラルトは東ドイツでは公式には存在しないとされるものを撮影していた。たとえば「ごろつき」、「廃墟」、「戦争の傷跡」などである。
 「うぬぼれやで人の役に立ちたいと思った人間は誰でもスパイをやっただろう。私は信念に基づいて行動する人間ではない。相手がかっこよく見えるなら、悪魔にでもすり寄っていくかもしれない」。アンダーゼンはそう答える。
 あの笑いの背景にはこのような事実があった。エレジーのような“East Hastings”がかかり、観ている者は驚きとやるせなさで、映像にどう反応してよいのか分からない気持ちになる。
 シュタージはアンダーゼンのことを高く評価してくれていたのだという。彼はそれがうれしかった。自由人のような振る舞いをしていても、その奥底には、誰かに強く認められたいという欲望がその発露を探し続けていた。秘密警察はおそらく人間がもつこの欲望の真理を知っていた。そして、むしろ自由人のように振る舞っている人間にこそ、この欲望が、その実現のされ方など全く意に介さぬほどに強く存在していることを知っていた。この映像はそんなことを考えさせる。
 ハラルトはアンダーゼンに密告された過去──彼は30人以上の人間に密告されていたが、まさか密告者の中に友人が入っているとは思っていなかったという──について尋ねられながら、スパイになった人たちの心情についてこう述べている。まず考えられるのは、彼らが公式のプロパガンダを真に受けていたのかもしれないということ。もう一つは、単なる冒険心。スパイになるというスリルを味わいたかったのではないか。
 人に認められたいという気持ちが、一見したところつまらないとしか言いようのない動機によって満足させられてしまう。しかも人を操る側はその真理を知っていて利用する。単に全体主義的な体制を批判するだけではすまない問題がここにはある。