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映像の哲学 第11回

年 齢

-『インターステラー』-

 

*このテキストには重要なネタバレがありますのでご注意ください。

 SF研究に詳しいわけではないので、これは今まで考えてきた私自身の見解にすぎないのだが、SFの本質とは、現実を支配しているルールの一部に変更を加えた上で、ルールの一部に変更が加えられた世界を、我々もよく知るこの現実と同じように描いてみせるという点にあると思う。そして、ルールの変更された部分とされていない部分が正確に規定されていると、ご都合主義的でない、しっかりとしたSFになる。しっかりとしたSFでは、驚きを作りうる。読み手や視聴者が、「ああ、こんなことは思いもよらなかったけれども、確かにこの世界ならこういうことが起こりうる!」と思える出来事を作品の中で作り得る。

 驚きを作り得たSFは、我々のよく知るこの現実そのものを見直す契機を与える。なぜならば、その時にSFは、いわゆる異化効果をもたらすものとなるからだ。異化効果とは、ドイツの劇作家・詩人であるベルトルト・ブレヒトの言葉で、我々が親しんでいる物事を、その日常的な文脈からずらすことで、不気味で見慣れぬものとすることを言う。つまり簡単に言えば、ハッとさせるのである。SF作品は現実を支配しているルールの一部を変更するのだから、それが適切な仕方で作り上げられた時、それは、現実の変更されていない部分について、強烈な異化効果をもたらし得る。我々が、慣れ親しんだ現実を、全く別の仕方で見ることを可能にする。

 『インターステラー』(クリストファー・ノーラン監督、2014年)は、宇宙航行が可能になった近未来世界を描くSF作品である。非常に多くの要素が詰め込まれた映画で、どこが見どころと思われているのかよくわからない。そもそもどの程度の評価を得ている作品なのかもよくわからない。ただ、私にはどうしても忘れられない、ほとんどトラウマのように記憶されているシーンがある。それは映画の最後で、まだ壮年期にある宇宙飛行士の主人公クーパーが、余命わずかの老婆となった娘に出会うシーンである(2:40:11)。

 おそらく私自身にも娘がいるからかもしれない。親は子どもが大きくなったらどんな姿になるのだろうかと一度は想像するものだ。冗談めかして、生きて何歳まで子どもの姿が見られるだろうか、などと口にすることもあるだろう。しかし、たとえば私は、余命わずかの老婆になった娘の姿を見ることは絶対にできないのである。立派に大人になって、年も重ねていく子どもの姿を見ることはできるであろう。しかし、老婆となった娘を見ることは絶対にできない。それは、どんなに願っても見ることができない、自分の娘の姿なのだ。

 主人公クーパーは宇宙航行の途中でブラックホールの近くを通り、時間の流れが極端に遅くなる事態を経験したため、老婆となった娘に再会することとなった。一般相対性理論に基づけば、わからないこともない話だが、しかし、これはそのような宇宙航行が仮に可能になったとしてみようというルールの一部変更によって作り上げられたSFである。非現実的だ。しかし、この非現実的な世界は、現実の世界を支配している残酷なルールを私たちに鋭く見せつけてくるのである。