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映像の哲学 第12回

依存症

-『失われた週末』-

 

 オーストリア゠ハンガリー帝国領ガリツィア出身のユダヤ系で、戦前から亡命先のアメリカで活躍したビリー・ワイルダーがアルコール依存症の問題をまさしく真正面から扱ったのが、1945年の映画『失われた週末』である。アルコール依存症はかつては「アルコール中毒」と呼ばれ、患者はその略称を使って「アル中」と呼ばれていた。おそらく公開当時にはこの名称が使われていたはずだが、現在の字幕では「アルコール依存症」に改められている。「アル中」という略称には明らかに侮蔑的な意味が込められていた。思えば、かつて映画にはよく「アル中」の人物が登場した。

 この映画では単に「アル中」を「アル中」として描くのではなくて、その背景と日常を描き出すことを試みている。学業成績も優秀であったドン・バーナムは小説家志望だが、それがうまくいかず悩みから抜け出すためにアルコールの依存している。住まいの近くのバーでも呆れられているが、一口飲めば、あの頼りないドンが実に雄弁に語り出す。アルコールはまさに万能感を与える薬である(00:16:34)。そしてもちろん、アルコールに頼らなければならない生活は悲劇的なものになっていく。ドンがアルコールを強烈に求める姿とその背景を描き出すこの映画の画面は、「アル中」を「アルコール依存症」として、つまり明らかな病気として再発見させる力を持っている。

 この10年ほどでアルコール依存症についての研究は進み、医療や社会での常識も大きく変わった。現在の水準から見れば『失われた週末』におけるアルコール依存症の描写はいくつかの問題点を指摘されるであろう(たとえば患者のスティグマ化。患者の悲惨を描きだすことは、その病に苦しんでいる患者を追い詰めることになり、かえって回復を妨げてしまう)。しかし、この映画の描写は圧倒的であって、「そうした問題はまたこの映画とは別に考えればいいだろう」という気にさせられる。

 最後は希望をもたせる、ややご都合主義的な終わり方になるとはいえ、映画の雰囲気は概ね悲劇的である。ただ、この映画を単に悲惨を描いたものと考えることはできない。映画は冒頭、大都会ニューヨークのビル群を映し出す。といっても、音楽の効果もあって、現代から見れば、大都市なのに冷たさよりも柔らかさを感じさせる。カメラが左から右にパンしていき、ビル群の手前にあるアパートを捉える。すると、不思議なことに、部屋の窓にビンが紐で吊るしてある(00:01:38)。この映画の主題を知っている人ならばすぐに想像できるだろうが、主人公が、周囲から咎められないように、ウイスキーのビンを隠しているのである(因みにドンはずっとライ・ウイスキーを飲んでいる。ライ麦を主原料とするウイスキーらしい。映画を見終わると、観客自身もライ・ウイスキーで酔った感じになる)。

 このシーンにはどこかおかしさ、滑稽さがある。先に言及したドンが雄弁になるシーンも同様である。悲劇的なトーンが続く映画に喜劇的と言ってもよいトーンが挿入されていることをどう考えたらよいだろうか。この喜劇性は決して導入のための、あるいは観客の息抜きのためのものではない。大げさな言い方をすれば、ここには悲劇性と喜劇性の本質が現れているのではなかろうか。悲劇はこの大都会ニューヨークのアパートとその近くのバーで起こっている。ドンは悲劇の中にいると言う他ない。だが、映画のカメラのような目線で離れたところが見れば、それもまたどこか滑稽さを伴っているのだ。

 悲劇において、人間は思ったように行為できず、行為または本人の意図を裏切る帰結をもたらす。喜劇においては、行為が見ている者の予想を裏切って、思いがけない可能性を示す。たとえばアルコール依存症の者がアパートの外にビンを吊るすのも、ウイスキー1杯で実に雄弁な語り口を見せるようになるのも、見ている者の予想の範囲を超えていて、だから何らかの緊張感を解きほぐすのだ。しかし、もちろん、これらの行為は大きな悲劇から切り取られた一場面に過ぎない。にもかかわらず。それが喜劇性を持ちうることは、人間の行為というものがもつ不思議な正確を表しているように思われるのである。