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映像の哲学 第13回

クーデターの繊細さ

-『ワルキューレ』-

 

 政治的な反乱について、暴動、革命、クーデターの三タイプを区別することができるだろう。

 暴動とは現体制への反抗が無秩序かつ無計画に勃発することである。しばしば体制はこれを暴力をもって鎮圧する。また体制は暴動を鎮圧するだけでなく、その扇動者たちを、平和を乱す暴力の手先であると喧伝し、暴動から鎮圧までのプロセス全体を体制の強化に利用する。暴動は往々にして既存の体制の強化へと至る。

 革命は法秩序を含めた現体制全体の否定であり、その否定を支える何らかの思想が背景にあるという意味では計画性を有するが、現象としては暴動と区別できないこともありうる。その意味で、ある暴動が革命であるとの認識は、事前には主観的にのみ存在し、事後には歴史家やジャーナリストなどの人々の判断によって客観的に確定される。

 興味深いのはその間にあるクーデターである。クーデターも現体制への反抗であるから、権力者を殺害したり、何らかの口実を作って逮捕したりする。しかし、秩序が完全に転覆されて、現行の法そのものが無効になれば、いかなる陣営にも──よってクーデターを起こした陣営にも──正統性(レジティマシー)が存在なくなってしまう。したがってクーデターは、体制を転覆するが体制を支えていた法秩序そのものは維持するという難題を乗り越えねばならない。

 また国家は広い意味での公務員によって運営されている。クーデターを試みる者は、役人、警察官、軍人といった公務員を、反乱の後、正式な命令によって動かさなければならない。正式な命令が発せられるためには、現行の法秩序が維持されていなければならない。「今日からは私たちが支配者だ」と口にするだけでは公務員を動かすことはできないし、公務員は法律に基づかない命令がなければ何もできないのである。

 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺計画に取材した映画『ワルキューレ』(ブライアン・シンガー監督、アメリカ+ドイツ、2008年)は、こうしたクーデター計画の困難を実に説得的に描いた労作である。映画のどこが史実とどのように異なっているのか(たとえば、シュタウフェンベルクは実際にトム・クルーズが演じたような人物であったのかどうか)については私には判断できないし、それは専門家の評を待つほかない。ただ観る者はこの映画の中にクーデターのもつ繊細な側面を読み取ることができるだろう。

 シュタウフェンベルクはヒトラー暗殺だけでは政権の転覆は不可能であると考え、国内予備軍の結集と動員のために策定されていた一連のオペレーション、「ワルキューレ作戦」を暗殺と同時に発令する。まさに、現行の合法性を維持し利用しつつ、現体制の転覆を図るためである。作戦失敗のハイライトは、おそらく、ゲッベルスを逮捕しに来た将校がヒトラー自身からの電話を受けて、逮捕命令に背くシーンに設定されているようにも思われるが、以上の観点からみて一番興味深いシーンは、通信部のシーンである。

 通信部は届いた電報を然るべき部署に届ける任務を負っている。文面がタイプされた細長い紙を、適切な長さに切って専用の厚紙にのりで貼り付け、それを通信兵がバイクで運ぶ。巨大な官僚組織と軍隊が、実際にはこのような紙で動いていることを実感させるという意味でもこの映画の通信部のシーンは実に興味深い。

 通信部はヒトラーの死を告げる通信に続き、ゲッベルスの逮捕状とシュタウフェンベルクの逮捕状が同時に届くという矛盾した状況に置かれる。将校たちが話し合う。最初は矛盾する通信内容であろうと配達させていた責任者も、もはやそのようには状況に対応できなくなる。詰め寄る部下。「我々も立場を決めねば」、「ご決断ください」、「勝利する側に付くように」。責任者がつぶやく。「よし」、「“巣”からの司令を通し、〔シュタウフェンベルク〕大佐からのは流すな」(1:34:40)。

 これによってシュタウフェンベルクらは、次第に各部署との連絡が取れなくなっていく。国家を支配するといってもその支配は命令に基づいており、命令とは要するに連絡のことである。連絡が取れなくなれば、支配は成り立たない。そして当時の連絡は紙に貼り付けられた電報であって、この電報が届かなければ(あるいは電話がつながらなくなれば)、クーデターを起こして、更にワルキューレ作戦という事前に用意された正式な作戦に基づいていようとも、支配は成立しない。

 政治的支配はある種の物(厚紙に貼られた通信文)に依存しており、物に依存している以上、人間の気ままにも大いに影響される。『ワルキューレ』はこの繊細さについて多くを考えさせてくれる映画である。