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映像の哲学 第14回

暗躍の象徴

-『リチャード二世』-

 

 めずらしく演劇を観る機会がありたいそう思考を喚起されたので、「映像の哲学」というテーマからは少しそれるかもしれないがその話をしたい。静岡県舞台芸術センター制作のウィリアム・シェイクスピア作『リチャード二世』(寺内亜矢子演出、小田島雄志訳)である。

 同作はシェイクスピアの作品の中ではかなり上演される機会が少ない作品である。シェイクスピアのことを少し知っている人に「今度、『リチャード二世』を観に行くんです」と話をしたら、「『リチャード三世』じゃないんですか」と言われたこともあった。ただ、政治哲学においては実はかなり有名である。

 舞台は14世紀のイングランド。王のリチャードが失脚し、家臣であったボリングブルックに王位を奪われるというのが話の筋なのだが、上演時、その内容は時の政治状況と重ね合わせて受け止められていたらしい。1601年、王位にあったエリザベスに対し、国民から大変な人気があったエセックス伯が反乱を企てるという事件があった。結局、反乱は失敗し、エセックス伯は処刑されてしまう。だが、国民に人気のある家臣からの反乱とあって、エリザベスはその後も自らの廃位の可能性にどうやらたいそう怯えていたようである。自らのエセックス伯の対立が、リチャード二世とボリングブルックの対立になぞらえられることを恐れたエリザベスが、「私はリチャード二世なのだ。分からないのか」と述べたという記録が残っている。

 世界史の授業では当時の政治体制は「絶対王政」と教わるが、その仰々しい名前とは裏腹に、王たちは非常に脆弱な権力基盤しかもっていなかった。集権的な体制はまだ成立して日が浅く、封建時代の分権的な雰囲気がまだ残っていたのである。封建体制は絶対的な服従を求める体制のように思われるかもしれないが、封建契約は双務契約であり、家臣たちは主君が自らの義務を果たさないならば契約違反としてこれを反故にすることができた。その意味で、封建体制は集権的な縦型の体制というよりは、相互が義務の履行を監視しあっている横型の体制であり、成立したばかりの集権的な絶対王政はこの過去の雰囲気を十分に脱せずにいたのである。

 『リチャード二世』はそのような時代にあって、まさに王位の脆弱さを描いた作品であると言える。『王の二つの身体』(1957年)(小林公訳、ちくま学芸文庫、2003年)で王のもつ二重性、すなわち、その可死的な自然的身体と象徴的な政治的身体との重なりがどのように成立したのかを描いたE・H・カントーロヴィチは、同書の冒頭で、この作品を詳細に分析している。廃位の後に平凡な人間に戻り、そして殺されるリチャードの姿が、政治的身体をもつ王もまた死すべき人間であるという王位の逆説を余すところなく映し出しているからであろう。なお最近では大竹弘二が『公開性の根源』(太田出版、2018年)でカントーロヴィチの議論を更に批判的に考察して興味深い議論を展開している。

 さて、前置きがながくなってしまったが、今回の上演で私が興味深く思ったのは、廃位後のリチャードを殺すエクストンという人物である。この人物、非常に謎めいていて、劇の最後まで全く登場しない。突然現れ、そしてリチャードを殺害するのである。原作を読んでも、今回の劇を観ても、エクストンが誰なのか、いかなる人物であるのかは全くわからない。演出の寺内亜矢子は上演後に私も登壇したアフタートークにおいて、いくら『リチャード二世』を読んでも、どこにもボリングブルックによるエクストンへのリチャード殺害の指示は記されておらず、したがって、エクストンは自らの判断でリチャードを殺害したのではないかという仮説を述べている。今回の演出もその仮説に基づいているという。殺害の場面、フード付きマントをかぶった、五、六人の誰だか判別できない人物たちが、リチャードを取り囲んで厳かに彼を刺殺する。誰だかわからない人物たちというところがポイントである。あれは「エクストン」と呼ばれる、ある種の権力の暴走かもしれないのだ。「エクストン」がもしかしたら一つのグループの象徴であるかもしれないという解釈もこの演出では示唆されている。

 殺害が起こったのはボリングブルックを王に戴く新体制が発足した後である。新体制においては、しばしばエクストンのような人物が現れるのではなかろうか。すなわち、その人物がそれまで何をしていたのかはほとんどの人間にはよくわからないのだが、新しい権力者に重宝されて、次々と新事業を達成していく。すると、新体制発足時の混乱を口実に、いちいち最高権力者に伺いを立てることなく、その意向を忖度し、あるいは勝手に判断して行動を始める。権力がこうして中央によるコントロールを逃れていく。実力者であるからその周囲には次々に新体制を支持する人物が集まり、いつしかグループを形成する。

 このような権力移行時のリアリティーを実にうまく表現した演出であった。近代の政治哲学にとってなくてはならない『リチャード二世』という作品は今回の上演によってその価値を更に高め、観ている者の思考を更にかきたてるものになったと言うことができよう。