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映像の哲学 第15回

創 設

-『リバティ・バランスを射った男』-

 

 ジョン・フォード監督作品、『リバティ・バランスを射った男』(アメリカ、1962年)は西部劇だが、英語圏では政治哲学の文脈で盛んに論じられているという。そうした研究を概観することはできていないのだが、確かにこの映画には国家の創設、特にアメリカのそれに関わる様々な論点を読み取ることができる。

 西部の田舎町シンボンにやってきた新米弁護士のランス(ジェームズ・ステュアート)が荒くれ者リバティ・バランス(因みにValanceであって、Balanceではない)との闘いを決意し、その決闘に勝利する。当時、シンボンにはこの地の合衆国準州から州への昇格を希望する人々がいた。彼らは「リバティ・バランスを射った男」として人気を博すランスを代表としてワシントンに送ろうとするが、法律家であるにもかかわらず銃を取った自分が許せないランスはそれを固辞する。しかし、ランスと恋敵の関係にあったトム・ドニファン(ジョン・ウェイン)が、リバティを仕留めたのはランスではなくて、実は、見えない位置から狙撃した自分であったことを告白し、ランスを説得する。ランスはその後、ワシントンに行って大物政治家となり、また、トムが結婚を夢見ていたハリーとも結婚する。ランスが久しぶりに戻ってきたシンボンで、以上の話を新聞記者に語るという形式で全体は進むが、新聞記者は西部には伝説が必要だとして、この事実は公表しないとランスに告げる。最後のシーン、ワシントンに戻る列車の中で、車掌から「リバティ・バランスを射った男ですからね」と言われたランスと隣に座るハリーは、既に亡くなったトムのことを想いながら、映画は幕を閉じる。

 おそらく映画全体が国家創設の一つのパターンのようなものを象徴的に描いている。人々が集まって話し合いをするためには、そもそもその話し合いに入ってこないジャマな分子を暴力によって排除しなければならない。そして暴力による排除は国家創設の神話にはふさわしくないがために、表舞台に立つのではない人物によって遂行され、またその事実は隠蔽される。

 しかしこれはかなりどす黒い解釈であろう。酒場で開催される“MASS MEETING ELECTIONS”と横断幕が貼られた集会のシーンには、政治がもつ、もうすこし前向きな、明るい傾向が非常にうまく表現されている(01:06:56)。アメリカ合衆国が形成されていく段階では、おそらくこのようなタウンミーティングが各地で行われ、人々の政治に対する参加意識が醸成されていったに違いない。

 なお、タウンミーティングの実施にあたり、北米への初期の移民たちは、先住民たちの自治の考え方を意識的に吸収していったという研究がある(ドナルド・A・グリンデ・Jr+ブルース・E・ジョハンセン『アメリカ建国とイロコイ民主制』星川淳訳、みすず書房、2006年)。北米へのヨーロッパからの移民たちによる先住民の抑圧や虐殺は事実であるが、先住民たちの優れた思想を範にしようとする人々もいたこともまた事実のようだ。アメリカ合衆国のやはりどす黒い歴史の脇に、なおも参照されるべき、自治と協力の思想および実践があったことは注目されてよい。

 そしてそうした思想および実践が、当時の人々にもどうやら価値あるものとして思われていたらしいということが、服装を整えてミーティングに参加する夫の姿を見たハリーの母親が、目に涙を浮かべながら述べる一言、「うちの人が……誇らしいわ!」によって表現されている。ここには政治に参加するという義務と責任を果たす人間への経緯が余すところなく表現されている。

 但し、すぐに付け加えなければならないのは、ハリーもハリーの母親も彼を見送っているということである。つまり女性は政治に参加する義務と責任から排除されている。つまりこのシーンは義務と責任を果たすことへの感激とともに、この義務と責任が排除を伴っていることを同時に表現している。そして、この場面では排除の事実はより強く強調されている。というのも、この見送りのシーンの直前、先に言及した横断幕が映されるシーンでは、入り口で無表情なまま地面に座り込む、トムの黒人奴隷ポンピー(ウディ・ストロード)の姿が描かれているからである。

 ポンピーの無表情には作為的な演出すら感じられる。ここで皆が目を輝かせながら実現しようとしている自治と協力から自分が完全に排除されていることへの諦めのようなものがそこには表現されている。ポンピーは映画を通じて白人から決して悪くない対応をされている。しかしそれは彼があくまでも奴隷の地位に留まっている限りにおいてのことだ。それを思い知らされた上で、先の見送りのシーンが描かれるのである。

 決して長くはないこのミーティングのシーンには、アメリカの政治のすべてが詰め込まれているとすらいうことができるであろう。