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映像の哲学 第17回

滞留と理性

-『醉いどれ天使』-

 

 映像だけはありありと思い出されるが、映画の名前が思い出せない。なぜその映像がこれほど鮮明に記憶されているのかは分からず、度々思い出してしまう。現代の言葉で言えば、これは軽いトラウマ体験なのであろう。自分のそれまでの経験から予期できる範囲を超え出た映像が目の前に現れた時、私はそれを物語化するための術を持たないため、その映像の記憶がたびたび意識に再来することになる。この再来をなんとかしたければ、やはりもう一度その映画を観てみるのが一番だ。次に目にした時には、映像にうまく意味を与えて物語化できるかもしれないからである。

 昔、どこかで観た、モノクロの日本映画に現れる、黒光りした汚い池、というか水溜りの映像が、私にとってはそのような映像の一つであった。軽いトラウマに過ぎないから、何としてでも探し当てたいという気持ちを抱いたことはなかった。今回、探してみたらあっさりと見つかった。映画は黒澤明監督『醉いどれ天使』(1948年)だった。戦争直後の闇市の街で、結核にかかったヤクザの松永(三船敏郎)と、うだつが上がらない飲んだくれの医者の真田(志村喬)が交流する話である。

 三船敏郎も志村喬もよかったが、見直してみてもやはり気になるのはこの水溜りだ。何かモデルでもあったのだろうか。地面の凹みにいつの間にかできたもののようだ。ボコボコとガスが発生しているのは、闇市の人々のゴミ捨て場になっているからである。自転車まで投げ入れられている。なお、「私の人生はこの沼みたいなものだ」だか「いつだってこの水溜りが私の人生にまとわりついてきた」だか言う女優のセリフがあるように記憶していたが、そんなセリフはなかった。

 医師真田がヤクザの松永に「お前の肺はこの沼みたいなもんだな」と言うと、ちょうどゴミが投棄される場面が映される(01:08:50)。そのゴミ投棄シーンが私には衝撃である。何らの処理もせずにこうして水溜りにゴミを捨てるということがかつては当たり前に行われていたのだろう。しかしそれらのゴミはずっとここに溜まっていくことになる。どこにも流れていくことができない。そのことが気になって仕方がない。直後、松永がスローモーションで海岸を走る無声映画のようなシーンが始まり、彼の心象が抽象的に描かれるのだが、ゴミ投棄シーンを目にしたばかりの私には、そんなイメージシーンはどうでもいいものとしか思えない。おそらくは異臭を放っているこの水溜りが、とにかく私には気がかりである。

 この映画は非常にわかりやすい対立をいくつも作っていて、たとえばいま言及したスローモーションのシーンでは、普段白いスーツを着ている松永が黒い服を着た松永自身に追いかけられる。同じく結核を病む無垢な女学生(久我美子)は、ヤクザの松永とは違って、真田の言いつけを守って治療に専念している。

 他にも同じような対立を見つけ出すことができるだろうが、水溜りが気になって仕方がない私に強い印象を残した対立は、松永に想いを寄せる飲み屋の女将ぎん(千石規子)のセリフによって形作られるそれである。ぎんは松永に、自分が生まれた町に行って一緒に暮らそうと訴える。そこで静養すれば病気もすぐに治ってしまうよ、と。そのとき、ぎんは自分の町を次のように描き出す。「ちっぽけな町だけど、町の真ん中をきれいな水が流れているんだよ」(01:22:15)。

 清潔な場所は「流れている」のであり、不潔な場所は滞留しているのである。ぎんは滞留に嫌気が指しているが、松永はその滞留の脇でしか生きていけない。闇市の人々も滞留の脇だからこそなんとか生きていける。あの女学生もこの滞留の脇で生きている。つまり、誰もがぎんのように、「流れている」ところに戻っていくことができるわけではない。だとしたら、滞留の脇にいながらも、人間がなんとか健康に健全に生きていくにはどうすればよいのか。

 私は記憶していなかったが、この映画の最後のセリフのやり取りは大変印象的である。心を打つからではない。その“取って付けた”様が強烈なのである。女学生が「先生、理性さえしっかりしていれば結核なんてちっとも怖くないわね」と言い、それに医師真田が「結核だけじゃないよ。人間に一番必要な薬は理性なんだよ」と答える。

 滞留の脇でも人間が健康に健全に生きていくにはどうすればいいか。この映画の答えは「理性」だったようである。この時代の日本ではこの言葉にまだ輝きがあったのだろうか。何を指しているのかが全く分からないこの言葉が、こうして女学生や町医者から語られることに、何か私は切なさを感じる。なぜ切ないのかと言えば、この滞留の脇で生きていくためには、「理性」などという意味不明の舶来の言葉に頼らねばならなかったのかもしれないなと思うからである。それはともかく、あの水溜りが象徴する滞留を前にして人間に何ができるのかについては、もうすこしゆっくり考えた方がよいと感じる。