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映像の哲学 第19回

差 別

-『南部の反逆者』-

 

 差別を論じるのはとても緊張する作業である。もちろんそうであるべきだ。差別は人間を決定的な仕方で傷つけるからである。この緊張する作業に、しかも、いったいどう解釈したらよいのか迷ってしまう映画を通じて取り組んでみたい。取り上げるのはラオール・ウォルシュ監督の『南部の反逆者』(アメリカ、1957年)である。

 舞台は南北戦争直前の南部ケンタッキー州。主人公マンティを演じるイヴォンヌ・デ・カーロは、カナダはバンクーバー出身の白人女優であるが、映画の中でマンティは、父が黒人奴隷に産ませた子という設定になっている。白人の父と黒人の母をもつという出自がマンティの外見からは全く分からないことが、この映画のストーリーの核となっている。

 マンティは父の死後、自らの出生についての事実を知らされ、奴隷として売り飛ばされてしまう。それまで裕福な白人の家庭で育てられたレディが突如、ドレスも剥ぎ取られて奴隷の身分に落ちるのである。この一連の過程は白人が黒人の置かれていた状況を体験するとどうなるかを観ている者たちに想像させる機能をもっていると思われるが、どこか嘘くささを伴っている。マンティ自身を決定的に貶めるような事件は起こらないからである。

 驚くべきは、奴隷のオークションで売られているマンティをいわば「身請け」するようにして高額で買い取ったクラーク・ゲーブル演ずる白人の金持ちヘイミッシュに、彼女が心奪われるという点である。しかもヘイミッシュには黒人奴隷の愛人ミシェル(演じたのはキャロル・ドレイク)がいたにもかかわらず、彼女を押しのけて愛人になるのである。ヘイミッシュの口からは自らがアフリカで残酷な黒人狩りに参加していた事実も語られている。マンティのヘイミッシュへの恋によって、この恐るべき事実が結局は肯定されていると解釈することも可能であろう。

 おそらくこの映画の中で差別が最も明確に主題化されていると見なされるのは、ヘイミッシュと、彼が自らの息子のようにして育ててきた、シドニー・ポワチエ演ずる黒人成年ラウルとの関係を描いた各シーンなのだろう。ラウルはヘイミッシュが自分に対して優しかったことがむしろ許せない。黒人としての出自に目覚めたラウルはヘイミッシュを憎みたいが、その優しさゆえに憎めないからである。

 映画終盤、黒人解放を掲げる北軍が攻め入ったニューオーリンズで、ラウルはヘイミッシュの邸宅の主人になっている。そこにマンティが駆け込んでくる。二人は会話する。ラウルが言う。「お前は自分を買った男と情を通じた女だ」。マンティが答える「彼はあなたの味方よ」。ラウルの返答。「それが最悪なんだ。やさしい話しぶり、信頼」(01:52:23)。差別に反抗する黒人の心を砕くような優しさをもった白人もいたということだろうか。解釈は難しい。ラストシーンにおけるラウルのヘイミッシュに対する態度についても同じことが言える。

 黒人を奴隷とすることが合法だった恐るべき時代を描いたこの映画の釈然としない点ばかりをあげつらってきたけれども、この映画が差別の何らかの本質に迫っていないというわけではない。取り上げたいのは、いま言及した、マンティとラウルの会話の直前のシーンである。

 マンティは学生時代に慕っていたセス(レックス・リーズン)に出会う。マンティの知っていたセスは差別に反対する固い信念の持ち主であった。だから今では北軍大尉になっている。セスはしかし、魅力的な女性に成長したマンティを目にして、自分が彼女を捨てて戦いに赴いたことを後悔する。マンティが自分の部下イーサンと結婚しようとしていることを知るセスは彼女にこう言う。

 

  マンティ、君はあの書類でイーサンをだませると思っているのか?

  君が白人だと?

  彼は戦友だ。家族のこともよく知っている。

  奴隷解放と結婚相手は別の話だ

  もしイーサンが君が黒人(Negress)だと知ったら?

 

 セスは最低の人間である。こう述べてからセスはマンティに襲いかかる。マンティがヘイミッシュの邸宅に駆け込んだのはセスの手を逃れるためだった。セスは幼稚な正義感の持ち主が容易に堕落するというくだらない人間の一パターンの具現化に過ぎない。重要なのはセス本人ではない。重要なのは、「マンティが本当は黒人であると知ったら結婚相手はどう思うか」というこの問いかけに他ならない。

 この問いかけには差別の一つの本質が現れている。本当は黒人である……。本当は何々である……。しかし、イーサンが本当にマンティを愛しているのならば、「本当は何々である」などという規定にどんな意味があるというのか。

 いや、むしろこう言うべきだ。イーサンがどう反応するかは分からないが(映画にはそのシーンは存在しない)、セスのようなくだらない人間が放つこうした問いかけそのものが差別を再生産しているのだ、と。「君が本当は何々であると知ったら、人はどう反応するだろうか?」──この問いかけにおいて予期されている差別的な反応は、人々の心の中に事前に可能性として存在しているのではない。いや、もちろん存在している場合もあるだろうが、なぜそれが存在しているのかと言えば、そもそもこのような問いかけによってそれが作り出されたからなのだ。差別があるから「本当は……」という問いかけが可能になるのではなくて、「本当は……」という問いかけがあるから差別が可能になっているのだ。

 因みに、件のシーンは暗い部屋の中で進行する。先のセリフを口にするセスの顔は左半分が影で見えない。わかりやすいシンボリズムである。