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映像の哲学 第21回

音と精神性

-『ヨーロッパ一九五一年』-

 

 哲学者ジル・ドゥルーズは『シネマ1*運動イメージ』、『シネマ2*時間イメージ』という全2巻の長大な映画論を残した(邦訳はそれぞれ、法政大学出版局、2008年、2006六年)。この映画論のテーマを一言で言い表すことは私にはできないけれども、そのテーマの一つは、紋切り型のイメージにどうすれば抵抗できるのかであったようにと思われる。『シネマ2』の第一章は、「イメージはたえず紋切り型の状態に陥る」と語っている(28頁)。ではなぜ紋切り型のイメージに抵抗しなければならないのだろうか。紋切り型のイメージは今あるこの世界をただそのままに放っておくからではないだろうか。この世界にある悲惨に目をつむるためにたえず生産され続けるのが紋切り型のイメージではないだろうか。

 ドゥルーズがこのテーマに直接に取組むにあたって取り上げたのが、ロベルト・ロッセリーニ監督の1952年の作品『ヨーロッパ一九五一年』(イタリア)である。イングリッド・バーグマン演じるアイリーンは、ブルジョワたちの世間づきあいにかまけて、息子に必要な愛情を注いでいなかった。息子は彼女の気を引くために階段から飛び降りて、その結果、命を落としてしまう。ショック状態に陥ったアイリーンは旧友のアンドレ(エットーレ・ジャンニーニ)に話を聞いてもらおうとして連絡を取る。アンドレは革命的思想の持ち主であり、アイリーンに社会変革の夢を語る。アイリーンはそれをきっかけにして、イタリアの貧民街に足を運ぶようになる。

 貧民街で知り合った女性のために、アイリーンが一度だけ工場(おそらくはコンクリートの工場)に労働に出かけるシーンがある。ドゥルーズが注目したのはそのシーンである。アイリーンはこの工場での労働をきっかけに大きく自らの主体性を変化させていく。ドゥルーズはアイリーンがアンドレに語ったセリフを引く。「まるで囚人たちを見ていたようでした……」(63頁)。これはセリフの仏訳字幕であって、正確には “Those workers seemed like the slaves of some evil god” である。邦訳字幕では「まるで働きアリみたい」となっている(01:05:54)。このシーンの後、アイリーンは世界を全く別様に捉え始める。彼女自身が「精神的(spiritual)」と呼ぶ確信をもって、恵まれない人たちに関わるようになる。アンドレ自身の思想はアイリーンを変えない。彼女を変えたのは工場の光景である。

 紋切り型のイメージは、対象から都合のいい要素だけを取り出してくる。紋切り型のイメージの中にいる限り、我々は自分たちの見たいものだけを見ている。ところがアイリーンはその紋切り型から抜け出した。ドゥルーズは工場の光景にそのイメージを見出した。工場を見たことが、彼女に変化をもたらしたというのである(ドゥルーズはここで、「物質に付け加わる主体性」という不思議な表現をしている(66頁))。ただ、実際に映画を見てみると、アイリーンに襲いかかっているのは、彼女が目にした光景ではなくて、むしろ彼女が耳にした音である(01:00:03~01:02:55)。工場の爆音が彼女に、これまで「見えて」いなかったものを「見せた」のだ。

 ドゥルーズにはどこか、ギリシア哲学以来の視覚中心主義のようなものがあるように思われる。ところが、映画ではこのシーンの後、アイリーンは、まさしくギリシア的なものに対立するキリスト教の教会へと向かう。決して映画全体がカトリックに対する護教論的なものになっているということではない。アイリーンを動かしたのは、何か「精神的」としか呼びようのないものであったのだろう。私はそれが、思想でも光景でもなく、音として訪れたことに何か心揺すぶられるものを感じる。

 しばしば、預言者は心の中で神の声を聞く。音(あるいは声)こそが人を動かす。それは私たちの思考そのものがどこか音(あるいは声)という性質をもっているからではなかろうか。ドゥルーズと同世代のジャック・デリダは哲学における音声中心主義なるものを批判し、声そのものにも実は文字のような性格があることを指摘した。どんな声も記号として解読されなければならないからだ。だとすれば、私たちの思考そのものが音(あるいは声)の性質を持つことは決してデリダの思想とも矛盾しない。私たちは、音(あるいは声)をもって思考しており、思考された音(あるいは声)は記号として解読されなければならない。アイリーンは彼女が「精神的」と呼ぶ仕方で、自分なりに受け取った音を解読したのである。