プレビューモード

映像の哲学 第23回

泣くという経験

-『シンドラーのリスト』-

 

 今回は映画そのものというよりも、私のある映画経験を通じた話を書きたい。「映画鑑賞」はしばしば「泣く」という行為に結び付けられる。だが私自身は、なぜか、ある時期まで、映画を観ながら泣いてしまうことを強く恐れていた。泣きそうな感覚を体内に感じると、その感覚が広がるのをなんとかして押さえつけていた。だが、自分でも信じられないぐらいボロボロ泣いてしまった映画があった。それがスティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』(アメリカ、1993年)だった。

 泣きそうな感覚を押さえつけていたと書いたが、そうしたことをある程度はっきりと記憶できているのは、この映画を観た後、友人たちに、自分がこの映画を観て泣いてしまったこと、しかもそれが映画を見て泣いた初めての経験であったことを明かし、それについていろいろと話をしたからである。大学サークルの部室でのことだ。私は友人たちに、泣くことはそのきっかけとなったもの──この場合は映画──によって自分が支配されてしまう経験のように思えていたと語った。

 後輩の女の子が教えてくれた。「全然違いますよ」。確かにそうだった。私は自分がいったい何を恐れていたのだろうか。私は『シンドラーのリスト』を観て、映画館でボロボロ泣いたが、この映画の大ファンになったわけではなかったし、この映画を批判的に検討することができなくなったわけでもなかった。私が泣いたのは、シンドラーが「もっとお金があれば私はもっと多くの人間を救えたはずだ」と泣きながら訴えるシーンである(02:59:28)。確かに映画のクライマックスである。だが、いまもう一度この映画を観てもここで泣くわけではないし、かつてこの映画に支配されていたような感情も感じない。

 本当によかったと思っているのは、映画を観て泣いてしまった後、この経験を友人たちと共有し、それについて話をしていたことである。自分の感覚にうまく言葉を与えてもらえたし、言葉を与えてもらえたから今でもその時の感覚をうまく思い出せる。自分が支配されてしまうのではないかという思い込みをはっきりと思い出せるのも、その時にそのことを友人たちに語ったからだ。

 だいぶ後になってから、カントが、「感動、すなわちそこでは生命力が瞬間的に阻止され、それに引き続いて生命力がいっそう強力に奔出することを介してのみ快適さが引き起こされるような感覚は、まったく美には属さない」と述べていることを知った(『判断力批判』第14節)。カントのような言葉で考えていたわけではないが、私は、涙として現れる感動が、美のような強力な普遍性をもって自分を支配しに来ると恐れていたのかもしれない。涙にはどこか暴力的なところがある。しかし、涙の暴力性は美の普遍性には遠く及ばないし、そもそもカントの言う通り、両者は全く別物であるというのが実情のようだ。

 この映画にもある種の美を感じたと思えるシーンはあった。それは、シンドラーがネクタイやカフスピンを選んで身なりを整えるシーンである(00:03:25)。それは涙を流したシーンよりもはっきりと記憶に残っている。