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映像の哲学 第25回

哲学は文系か

-ETV特集「誰のための司法か~團藤重光 最高裁・事件ノート~」-

 

 法律は社会を支える要の一つである。そして法律は文によって成り立っている。文を扱うにあたっては、解釈を中心とした独特の技術が必要とされる。それは文字を学ぶところから始まり、身につけるまでに長い修養を必要とする技術である。

 いわゆる文系の学問とは、何らかの仕方で文に関わるもののことを言う。文が関連する学問はすべて文系である。あるいは文系の要素をもっている。文系の学問がなぜ必要なのか。それは我々が望ましいと考えている社会は、文がなければ成立し得ないからである。その意味で、社会との直接の関係においては、文系の学問の前衛の位置にいるのは法学かもしれない。

 法学は自らの存在を維持するために、当然、他の文系の学問を必要とする。史料を扱う専門家を作り出す歴史学、言葉そのものの理解を扱う文学、概念の操作を得意とする哲学。そうした他の文系の学問が法学のために存在しているわけではない。文に関わるそれぞれの学問には、それぞれ独自の存在意義がある。ただ、社会との直接の関係において、法学は矢面に立つ場面が非常に多いと言うことはできるのであって、法学との協力関係は文に関わる学問にいつも突きつけられている課題である。

 では哲学は文系なのだろうか。もちろん、一方では間違いなく文系であると言うべきである。哲学の営みは文を読むこと、文を書くことと切り離せない。確かに哲学から生まれてくる作物のほとんどは文であり、また、人が哲学に触れる際に最初に手をつけるのもほとんどが文であるから、哲学と文が切り離せないと考えることは少しも間違ってはいない。

 だが、他方、哲学が文のみに関わっているとか、文がなければ哲学は存在しないとまで言い切れるかは疑問である。アリストテレスは人間が真理を受容する能力をヌース(知性、直知などと訳される)と呼び、この能力は内容としてのロゴス(言葉)を欠いていると考えていた。アリストテレスが哲学的な生の中心においたテオーリア(観照)もまた、ロゴス(言葉)を用いた活動とは区別されるものだ。

 映像の哲学というテーマもまた、哲学が文のみに関わっているわけではないという問題意識から現れ出たものである。映像もまた、哲学と呼ぶほかない営みを生み出し、またそのような営みを求めることがある。その瞬間を何とかして記録できないか。その記録は必ずしも文である必要はないのだが、本連載ではさしあたり、文によるその記録を試みてきている。

 冒頭で法学に言及したのは、元最高裁判事の團藤重光(1913-2012年)と大阪国際空港公害訴訟を巡る優れたテレビドキュメンタリー、ETV特集「誰のための司法か~團藤重光 最高裁・事件ノート~」(NHK、2023年4月15日放送)を観たからである。これは騒音に苦しむ空港周辺の住民たちの訴えが最終的に最高裁で退けられるまでに、いかなる政治介入があったのか、その過程を丁寧に辿ったものだが、詳しい内容にはここでは触れない。私が取り上げたいのは、番組内で何度も写し出される團藤の写真である。

 法服と呼ばれる黒い衣装をまとった團藤の写真が何度も写し出される。それを観ながら私が思い出したのは、司法権力についてのハンナ・アレントの指摘である。司法、立法、行政という三つの権力部門の中で、司法は最も弱いとアレントは言っている。というのも、司法は究極的には、「これは白だ」とか「これは黒だ」とか判定を下すだけだからである。そのことをアメリカ建国の父たちはよく分かっていた(ハンナ・アレント『革命について』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1995年、320頁)。だから、司法を他の権力から守るために、そこに強大な権威を付与した。アメリカの最高裁判所がパルテノン神殿のような荘厳な作りであるのはそのためである。日本の最高裁判所の建物も同様であろう。そして、法服もまた、同じ機能を持っている。文を扱って判定を下す人たちを守るためには、権威を生み出す荘厳な雰囲気が必要なのだ。何度も写し出される團藤の写真はそのことを観ている者に強力に印象づける。

 しかし、裏を返せば、荘厳な雰囲気は司法の弱さの現れでもある。弱いから荘厳にしているのである。そしてこのドキュメンタリーが扱っているのは、司法権力が行政権力に負けていく過程に他ならない。

 歴史学はこの過程を裏付ける史料の扱いを手助けしてくれるだろう。法学はこの判決の意味を正面から考察してくれるだろう。そして、この映像、この事件、この裁判を巡って、哲学にも様々な役割を果たすことが求められるだろうが、その役割の一つは、黒い法服が我々に与える印象とその意味を考察することではないだろうか。

 哲学の役割を法学の下支えに限定することはできないが、既に述べた通り、社会との直接の関係において矢面に立たされることの多い法学との協力関係は、哲学に課された重要な任務である。そして哲学は確かに文を扱うのだけれども、文に還元されるものでもない。哲学は文を大切にしながらも、文以外の対象とのつきあい方をも模索していかねばならない。そのような哲学の性質は、法学との協力関係にもどこかで資するところがあるだろう。余りにも重たい判決を扱った番組を観て、私は自分が「映像の哲学」というテーマで考えようとしていたことの意味を再確認した。